投稿

7月, 2022の投稿を表示しています

紙コップが話しかけてきた話(17)

裸だったからといって、どうということはない、といえばそれまでなのだが、問題はいつから裸だったか、ということである。 読者諸氏においては、この話のはじめから今の今まで、特に断りもなかったゆえ、僕についてのイメージには、常に何らかの衣服を纏わせていたのではなかろうか。もちろん具体的に何を着ていたか、というお仕着せがましくも誠実なイメージを、わざわざ構成するといった労を支払う人は決して多くはないだろうから、僕が身を置いているであろう時代や文化や環境や状況に相応しく、読者の特に好きでも嫌いでもない色合いで、非意図的で、自然で、誰の気分も害さず、喜ばせもせず、何らの意味も持たず、価値づけもされえず、あるにはあるが、あたかもないようにしか作用も機能もせず、見目麗しくはないが見苦しくもない程度の何かを装わせていたのだろう。僕が身を置いているであろう時代や文化や環境や状況というものが明確に措定されているわけではなく、読者の好き嫌いは実に多様で、色合いと言った感覚的刺激に対する好悪の判定も、価値基準の対象になるか否かも、価値基準そのものが正当か不当かも、いずれにせよ事後的に評価するほかなく、それらのイメージが実現も検証もされない以上、永遠にその「事後」の機会が訪れることはないのだし、仮に僕が裸ではなかったとしても、そのような衣服も、そのような衣服を着ている何者も、どこにも存在しえないのだから、そのような衣服を、ここにいるこの僕が着ているわけもないのではあるが。 重要なことは、「何らかの衣服を僕が着ている」というイメージが、明確に誤りであるという点だ。つまり、僕が紙コップに話しかけられたときも、紙コップの数を数えていたときも、紙コップと対話していたときも、紙コップについて考えていたときも、紙コップについて考えていなかったときも、紙コップを見つめていたときも、紙コップから目をそらしていたときも、紙コップになろうとしていたときも、紙コップになりきれなかったときも、紙コップを記憶していたときも、紙コップを忘れていたときも、紙コップの歌を聴いていたときも、紙コップの詩を聞き逃していたときも、紙コップになにか書きつけていたときも、紙コップに何かを書きそこねていたときも、紙コップの外にいたときも、紙コップの内にいたときも、僕は裸だったということだ(僕が自分自身でそう気づいていなかっただけで)。誠実...

紙コップが話しかけてきた話(16)

 口に出して呟いた。 「僕は紙コップの外にいたと思っていたが、いつの間に紙コップの中にいることになってしまったのだ?」 もう一度僕は口に出してみたが、それは現実を受け止めて呑み込むためではなく、自らが口に出したことについて覚えた違和感を再び吐き出すためだった。 (僕は紙コップの外にいたと思っていただろうか? もちろん紙コップの中にいるとは微塵も考えてはいなかったし、お前は紙コップの内に在るなどと紙コップや他人や神に言われたとしても、僕は否定したか、黙殺したか、話題を変えたかしたことだろう。なぜなら僕はただ単に紙コップと幾ばくかの時間相対し、ある限られた空間のなかで向き合っていただけなのだから。あるいはそれ以外の膨大な時間を互いに無視することに費やし、近くとも遠くとも変わらず隔絶した別個の空間をめいめい占有していただけなのだから。僕は紙コップを自らの内に取り込むことで紙コップの外に在ったことはなかったし、そう在ろうとしたこともなかった。ただ紙コップの内にあるもの‥‥多くの場合は何らかの液体を、僕の身体の内に取り込むことはあったろうし、あるいはその逆、僕の身体の内にあるもの‥‥多くの場合は何らかの体液を、紙コップの内に注ぎ込むことはあったろう。だが結局のところ、それはどちらも、互いの内にあるべきものや、自ら産み出したもの、己れの核となる何かしら重要かつ肝要かつ肝腎かつ主要かつ兼用かつ要用なものではなく、何時も一時的に内に留めておく類いのものだった。つまるところ僕たちは吐き出すために受け入れる仮初めの容器、受け渡しが行われる経由地に過ぎず、何もかもが僕らの内と外を詰まることなく通り過ぎていった、そうではなかったか?) であるからして、別段僕は紙コップの外にいたわけではなかったが、ともあれ、いつの間にか紙コップの中にいた。これまで紙コップの中にいたもののように、いずれ外へと出ていくために、いま中にいるのだとしても。 再再度、僕は口に出した。 「僕は紙コップの外にいたわけでもないが、何故、いつの間にか紙コップの中にいることになってしまったのだ?」 誰にともなく、自らにでもなく、神に対してですらなく、投げ捨てるために問いを投げ捨てた。僕はもう答えを持っているのだから。問いの行き先に意味はない。終着も執着も祝着もない。着の身着のまま着るものもない。 そうだ、僕は裸だったの...

紙コップが話しかけてきた話(15)

気づくや否や、僕はペンを持ち、升目にまた立ち向かった。ペンを突き立てるや否や、気づいた。いつの間にやら、僕は紙コップに向かわず、この部屋の壁に向ってペンを向けている。それでいておかしなことに、先程の升目は変らず僕の前にあるのだ。つまりは、紙コップの表面に書き込まれていたはずの升目がそのまま、目の前の壁に書き写されていた恰好になる。紙コップは消えてしまっていた。いつ消えてしまったのか? 僕が升目を変えようとしたときか? 五線譜が升目に変ったときか? 升目が五線譜に代わったときか? 紙コップを持ったときか? 頭の中に五線譜が書かれたときか? 紙コップに話しかけたときか? 紙コップが話しかけてきたときか? 紙コップに口をつけたときか? (この小説を見返せば、紙コップの消えてしまったその瞬間の記述を見つけることが出来るのだろうか?)それとも、そのいつでもないいつかに、いつの間にか消えてしまったのか? 黒い落書きあるいは絵画あるいはイラストあるいはデザインが描き込まれた(ペンキの掠れ具合から言って、この図形が描かれたのは少なく見積もって5~6年は前のことだろう)白い壁の前で、刷毛を手にした僕は茫然とした。 ただ消えてしまったことは確かなのだ。確かなものが消えてしまったことも、確かでなかったものが消えてしまったことも、等しく確かなことだった。 紙コップが消えたことについて、僕が確信を得たとき、僕は紙コップがある場所に気づいた。いや、正確には、紙コップが僕のいる場所だと気づいたのだ。 「この部屋は…紙コップじゃないか」 白い壁、白い床、ぐるりと円を描いた部屋。天井は吹き抜けで、天の底は見とおせないほどに昏かった。内壁に設えられた常夜灯の光が、部屋の白色の反射に吐き出され、夜に吸い込まれている。 僕は壁に触れてみた。ざらざらとした手触り。僕は壁を叩いてみた。ゴツゴツとした堅さ。 僕は床を踏みつけてみた。ゴツゴツとした堅さ。僕は床に触れてみた。ざらざらとした手触り。僕は床から壁までなめるように舐めてみた。カラカラと乾いていた。僕は床から壁まで慈しむように口付けてみた。ピチャピチャに濡れていた。僕はペチャクチャと何事かを口にしてみた。部屋のなかは変わらずしんとしていた。 その他にもいろいろなことを試してみたが、僕の五感の総てが、この場を紙コップの中ではないと告げていた。にも拘らず、僕は...

紙コップが話しかけてきた話(14)

しかし書き留めたところで、僕はドレミを知らず、ファソラを見る目もなく、シを聞く耳を持たなかった。最も肝心なメロディは余すことなく取り零され、最も余計な詩のみが取り留めもなく書き残された。 計算に必要な数直線を引こうとしていた僕は、そのまま横に真っ直ぐの線を5回引いた。僕にはそれ以上、黒い染みをつけることができないことはわかっていた。わかっていてもやってしまった。 ドとレとミとファとソとラとシとドの間の音(しかしちょうど中間にはない)、ドでありレでありミでありファでありソでありラでありシでありドでもある音、ドでもいいレ、ミのないファ、ソの気のないラ、シを待つド。幾つかの線の間の幾つかの点。流れる音色を封じることにしくじり、ありもしない音を閉じ込め、再生するべきものもなく、再生することもできない黒点。 詰まるところそれは、何かがあることの徴としての点ではなく、ただ何もないことを示す穴、孔、坑だった。なにも産み出さないまま膿を出す、留意すべき遺留物の移流先となる流域にただひとつ浮かぶ島であり、かつ大海に唯一つ隆起することで穴を穿つ大陸。無人島であり無動物島であり無虫島であり無植物島であり無鉱物島であり無機物島であり無国籍であり無農薬であり無頓着であり無認可であり無差別であり無責任であり無節操であり無論島である無色の島。 ここがお前の暮らす場所だと、だれかにぽつりと呟かれた気がした。ここは僕の島ではないけど、僕だけの島なのだからと。 もうこのときには、脳内の紙に書き記された五線譜は、眼前の紙コップの表面に写し込まれていた。他ならぬ僕の手によって。右手に持ったペンで、左手に持った紙コップに。左手に持ったペンで、右手に持った紙コップに。口に加えたペンで、両手に持った紙コップに。 記した点のひとつから、インキが垂れた。地から吹き出す石油のように、川へ流れる下水のように、開いていないはずの穴から染み出すように、次から次へと、別の点からも立て続けに黒い液体が五線譜を汚しはじめた。垂直に垂れたインキの軌跡が、点から線を形づくるように見えた。気がつけばはじめにあった横の線と後からできた縦の線が交わり、五線譜は升目になった。ただそこに存在していなかっただけの点は、何かを閉じ込めるための囲いに変わった。何も閉じ込めず、ただ一定の領域のみを閉じてしまっている囲いだ。寄り添い寄せ集められながら、...

紙コップが話しかけてきた話(13)

以下に記すのは、僕が上記の証明・計算・検証を遂行していたときに、(まさにそのときは果たして何かすら解っていなかった)紙コップの口の底から、絶えず垂れ流し続けられていた唄の詞を、可能な限り書き留めたものである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 一昨昨日の一昨昨日は 一昨日の一昨日の一昨日 昨日の昨日の昨日の昨日の昨日の昨日 一昨昨日の一昨日の昨日。 一昨昨日の昨日の一昨日。 一昨昨日の昨日の昨日の昨日。 一昨日の一昨昨日の昨日。 一昨日の一昨日の昨日の昨日。 一昨日の昨日の一昨昨日。 一昨日の昨日の昨日の一昨日。 一昨日の昨日の昨日の昨日の昨日。 昨日の一昨昨日の一昨日。 昨日の一昨昨日の昨日の昨日。 昨日の一昨日の一昨昨日。 昨日の一昨日の一昨日の昨日。 昨日の一昨日の昨日の一昨日。 昨日の一昨日の昨日の昨日の昨日。 昨日の昨日の一昨日の一昨日。 昨日の昨日の昨日の一昨昨日。 昨日の昨日の一昨昨日の昨日。 昨日の昨日の昨日の昨日の一昨日。 6日前 指折り数えた折り返し 指立て数えた揺り戻し 6日後 明日の明日の明日の明日の明後日 明日の明日の明日の明後日の明日 明日の明日の明日の明々後日 明日の明日の明後日の明後日 明日の明日の明々後日の明日 明日の明後日の明日の明日の明日 明日の明後日の明日の明日の明日 明日の明後日の明日の明後日 明日の明後日の明後日の明日 明日の明後日の明々後日 明日の明々後日の明日の明日。 明日の明々後日の明後日。 明後日の明日の明日の明日の明日。 明後日の明日の明日の明後日。 明後日の明日の明後日の明日。 明後日の明日の明々後日。 明後日の明後日の明日の明日。 明後日の明々後日の明日。 明々後日の明日の明日の明日。 明々後日の明日の明後日。 明々後日の明後日の明日。 明日の明日の明日の明日の明日の明日は 明後日の明後日の明後日 明々後日の明々後日 ~~~~~~~~~~~~~~  

紙コップが話しかけてきた話(12)

紙コップに話しかけられてから、ゆうに6日が経過していた。我々は、人も紙コップも等しく時の奴隷にすぎない。飲まず食わずで相対している144時間あまりは、紙コップにとっても飲ませず食わせず佇んでいる8,640分間であった。互いに意思の疎通も量れず、役目の一つも果たせず、かといえ立ち去ることも持ち去られることもできないままの518,400秒間は、片時も瞬きの許されぬひとときの不届きなもたつきに費やされた。 時の過ぎ行くままに行き過ぎてゆく時の内と外で、僕は紙コップのことを忘れた。紙コップも、僕のことを彼の記憶・海馬・メモリに留めおくことはしなかった(今さら口にするまでもない紙コップについての、今さら口にするまでもない事実ではあるが、一応付言しておくと、紙コップに記憶や海馬やメモリやストレージがある筈もなく、そこに保持・蓄積・保存・収容されるべき何ものも、保持・蓄積・保存・収容を可能にする場がなければ存在を許されないのだから、紙コップも、僕も、紙コップが伝えようとしている何事かも、ありもしない場にあることはあり得ないのである)。結果的に、互いに相手を忘れ去ったことで、紙コップはただ誰かに話したかった何事かを抱え、僕は誰かに何かを告げられる準備をしたまま停止した。 何事かが起こってから、もしくは何事かを始めようとしてから、無為に6日が経過していることだけが自明であった。その「何事か」を解明しなければ、この6日から先へ進むことすらできないと、僕は明快に感じていた。 ならば僕のやるべきことは決まっていた。それは6日間のはじまりを定めることでも、6日間の終わりを定めることでも、その一日一日に何がしか「在れ」と祈ることでもなかった。 何事かによって生じた6日間を克服し、6日間という時間の果てに隠されたその何事かを見定めるためには、その6日間を無くなしてしまうことだけが逆説的に必要だった。単純な引き算の問題だ。(6日間+X)マイナス6日間=X。6日間を、6日間でありながら、6日間ではもはやないものへと、自ずから変じさせてしまう証明の過程を開始すること。数に因りて解して分けよ、繰り返すことなく組み立て直せ。 そこでは、全体も部分も繋ぎもアウラも忘却し、数直線の始点を記すジェットインクの容器の梱包の資材の倉庫の土地の所有の権利の根拠の法の判例の経験の綜合の概念の志向の嗜好の思考の能の脳の納...

紙コップが話しかけてきた話(11)

(                                    ) この空白を埋めることが、俺が俺に課した、誰もが誰にも課すことのない、記録と記憶の役割のように思われた。 俺は記録しなかったことを記憶した。俺は記憶しなかったことを記録した。記録したうえで、記憶したことは存在しなかった。記憶したうえで、記録したことも存在しなかった。記録もせず、記憶もしなかったことのみが存在していた。今もなお存在しているのは、記録にも記憶にも居を構えないことだけだ。記憶も記録も、存在のなかでは、居たたまれないままである。 ※いずれにしても、俺に描写できるのは俺が描写できることだけで、始めから起ころうが起こるまいが、そこにさしたる差異はないのではあるが。 すべてはその場に居ながらにして、居ないようにしか振る舞えなかった俺の感傷だ。始めから居ないように、居なくなれば良かった。今また無為な記録と記憶が記述されている。空白は埋まることなく、新たに生まれた文字列は、ただ各々が生じた新たな場を占有した。いずれ腐り落ちる足場のうえに、腐れたその身を横たえて、腐臭を立ち昇らせることしかできないのに。 まさにそのとき、かつて俺から滴り落ちたあの水滴が、ついに気化した。誰にも気に掛けられることもなく生じ、誰にも気にされることもなく在り、誰にも気づかれないままに、誰にも気づかれないものへと変性した。それは決定的な別離であった。俺が別れた水滴と、水滴と別れた俺が、水滴と再会する俺と、俺が再会する水滴を失った。気化した水滴が俺の内に浸透しようとも、俺が気化した水滴の内に包みこまれようとも、俺と水滴の絆は回復しないのだ。これを空白と言わず何と言おうか。もはや帰化することのない気化! 俺と水滴を引き裂いた紙コップは、水滴と俺を仲立ちすることもなく、口を開けて何かを待ち、新たに何かを語りはじめることもない。そして沈黙が訪れた。つまり何も訪れない時間と空間と、間に合わないままの思考の残滓。 自分がどこで何をしているのか、この空間のなかで何がどこにあるのか、どこに何があるべきなのか、何のためにどこにあるべきなのか、なぜそこにあるのか、なんのためにそこにあるのか、なぜそのものが私の手の中にないのか、あるべきものがあるべきところに在るべき形であるべきように、ありはしないのか…。 思考は組み立てられることのないまま、...

紙コップが話しかけてきた話(10)

「それはいけません。」 ぴしゃりと紙コップは言ってのけた。ぴしゃりと? 私には何の液体も注いではいなかったというのに、まるで水が撥ね落ちるような喩えを言動で表すとは、こいつは紙コップの分際で本当に紙コップか? 私はお前に何も注ぎはしなかったし、お前も俺に何も注ぎはしなかったし、これからも注がないし充たされることもないだろう。それでもぴしゃりと言うのなら、さぁ、どこに水の痕跡があるというのだ。私はいまだ汗のひとつもかかず、唾も垂れず、涙も流していはしない。机の上にもテーブルの上にも椅子の上にも床の上にもそんなものはないに違いない。紙コップの底の裏の下に隠しているというのなら見せてみるがいい。見るまでもなくそんなものはありはしないだろう、見ることなど俺にはできないのだから。あぁ、お前は姿・形こそ紙コップだがそれゆえに紙コップそのものから最も遠い場所にいる。紙コップ以上に紙コップである私の前では厳に慎み、その身の程を弁えたまえ。紙コップの前に立つ紙コップに似た何ものかほど惨めなものはない。私はぴしゃりとそう言ってやった。 「あぁ、いけないいけない、これは無理解よりもたちの悪い誤解よりも醜悪な過剰な理解です」 そもそも理解というものは、漸進するものであって前進するものではない。 前進しているのだと信じているときには、たいてい理解は進んではいない。 進んでいるのは理解ではなく、思い込みであり、欲望であり、虚栄である。 もしも君が前進してしまっているとすれば、それは君が理解しようとする、 もしくは理解しなければならないものから、どんどんと離れていっている、 ということに他ならない。君が進んでいる時に、君の理解の対象はその場… つまり君が理解を試み始めた理解の対象が占めている場所ということだが… その場所に置き去りにされ、取り残され、忘れ去られ、ただ留めおかれる… 君は他の誰よりも理解していると思い込みながら、もう見てすらいない―― 君の目に映っているのは君が理解するに足ると信じる都合のいいもので―― もはや理解の対象の残り滓ですらない。初めから無いも同然の君の外の物! 君は君の流儀で理解する。理解の対象を暴力的に君の理解の形に変形する! あるべき理解というものは、対象を支配するために行使されてはならない! 「得るために理解するのではない。失うことが理解するということなのだ」 「...

紙コップが話しかけてきた話(9)

まるで、今までずっと籠っていた洞穴からでも出てきたかのような台詞だった。俺は、紙コップ自身が洞穴みたいなかたちをしているのに、そんな言葉が出て来るのが可笑しくて、小さく鼻を鳴らした。 「なんだ、急に苦しみだして急に静かになったから、急に死んだか、急に眠ったかと思ったよ。だからと言って、急に生き返ることも、急に目覚めることもないと思うがね」 俺はその可笑しみを押し隠すために、半ば嘲りを込めて正直に皮肉を述べた。紙コップは、それに対して怒りや皮肉や憐れみで応ずるのではなく、次のように答えた。 「あぁ、いえ、お騒がせして申し訳ありません。不快な思いをさせたのなら謝罪します。どうか御容赦のほどを」 これには紙コップが騒がしくなったときより、静かになったときより、話しかけてきたときよりも面食らった。申し訳ない? 謝罪? 御容赦? 尊大な紙コップには、似つかわしくないにも程がある言葉たちだ。この紙コップは本当におかしくなってしまったのだろうか? かくなる上は、こちらも本気で可笑しく笑ってやるべきなのだろうか? だが、本当におかしいと感じることに対して抱くこの言い知れぬ不安はなんなのだろう? この不安の覆いの下では、笑い声すら立てずに息を潜めてやり過ごすことが正解に思えないか? よしんば笑ってみたところで、きっと笑い声は渇いて掠れて、今いる小さな部屋どころか紙コップの中すら満たせずにかき消え、伽藍堂に空の紙コップと虚ろな俺を取り残すに違いないのではなかろうか? その様をいったい誰が笑ってくれるというのだろう? 言葉を失った俺を見かねたのか、紙コップはこう続けた。いや、続ける前に書き留めておくべきことがある。言葉を失ったと書いたが、俺は言葉を失ったのではあるまい。俺は何も失っていない。何も俺は失っていない。失って俺は何もいない。いない俺は何も失って。俺は何もいない失って。何も俺は失っていない。失って俺はいない何も。いない俺は失って何も。俺は失っていない何も。何も失って俺はいない。失って何も俺はいない。いない何も俺は失って。俺は失って何もいない。何も失っていない俺は。失って何もいない俺は。いない何も失って俺は。俺はいない何も失って。何もいない俺は失って。失っていない俺は何も。いない失って俺は何も。俺はいない失って何も。何もいない失って俺は。失っていない何も俺は。いない失って何も俺は。...

紙コップが話しかけてきた話(8)

揺れが収まってほどなく、あぁ、もうこの紙コップが声をあげることはないのだな、とふいに俺は気がついた。もうこの紙コップは動かないのだなと、俺は理解した。もうこの紙コップに俺が見られることもないのだなと、俺は腑に落ちた。立ちあがり、紙コップを上からのぞき込むと、紙コップの口から紙コップの底が見えた。深くもなく、浅くもなく、ただ空であるがゆえに見える基底だった。そこで何かが受け止められることはあっても、そこから何かが生みだされることはない深み/浅みが其処に在った。出し抜けに、涙が目の端から溢れ、頬と笑窪と顎とを伝い、俺から離れて落ちた。 (いや、実のところそれは、鼻腔から這い出た鼻汁が、頬と笑窪と顎とを伝って行ったのかもしれない。その時期俺は花粉症に悩まされていた。もしくは、欠伸の際に唇から垂れた涎が、頬と笑窪と顎とを伝って行ったのかもしれない。その時俺は欠伸が出るほど退屈していた。あるいは、涙と鼻汁が混ざり合って、頬と笑窪と顎とを伝って行ったのかもしれない。花粉症の時には涙も鼻汁も出るものだ。または、涙と涎が入り混じって、頬と笑窪と顎とを伝って行ったのかもしれない。欠伸をするときには涙も涎も出るものだ。または、涎と鼻汁が混成されて、頬と笑窪と顎とを伝って行ったのかもしれない。花粉症の時に欠伸が出ない道理はない。ひょっとすると、涙と鼻汁と涎とが混淆しあって、頬と笑窪と顎とを伝って行ったのかもしれない。その場合、鼻汁は花粉症のモノ、涎は欠伸のモノと、その出自を断定することができるが、果たして涙が花粉症の症状で出たものなのか? 欠伸につられて出たものなのか? その両方なのか? どちらでもない理由で流れたものなのか? でなければ、流れ出た液体とは汗のことであったのかもしれない。その時の俺は、健康とは言えなくとも不健康ではなく、理由のない興奮状態で体温が上昇気味であったともいえるし、原因不明の羞恥と恐怖とで体の芯まで冷え切っていたので、玉の汗と冷や汗が、顔面のどこかから分泌されて頬と笑窪と顎とを伝って行ったのかもしれない。ないし、汗と涙、汗と鼻汁、汗と涎、汗と涙と鼻汁、汗と涙と涎、汗と鼻汁と涎、汗と涙と鼻汁と涎が、俺の顔の何処かで合流して、頬と笑窪と顎とを伝って行ったのかもしれない。) いずれにせよ、俺から離れて落ちた一滴の水は、風のない空間を下降し、紙コップの口の中へ向かいなが...

紙コップが話しかけてきた話(7)

「及第点なら、さっさと答えを教えてくれないか、何が言いたいのか言ってくれ」 「そんなに焦らなくても良い。お前はすでに答えにたどり着いているようなものだ。いや、答えにたどり着いているわけではないのだが。つねに前提は結論と同義であり、論証の過程は目標へと向かう旅路ではなく、いつも出発するところに近いうちに帰ってくる事が分かり切っているような、ちょっとした気の抜けた散歩のようなものにすぎない。お前は結局考えているようで考えることを投げ捨てるようにしか考えられない。逃げないようにすることで逃げることから逃げることしかできない。お前は姑息だ、姑息さに対しても姑息だ。お前の考えを問うたことで、お前の役には微塵も立たなかったけれど、お前の考え方の不足を推し量ることには些か成果が上がったのだから、収穫はあったということにしておこう。いや、収穫があるわけではなく、収支は明らかにマイナスだし、収支の計算をする分の労力も加えれば何もかも減るばかりだし、つまるところ俺たちは互いにただ喪失するに任せているだけなのだから、収穫がないと口にすることが正しい。それでも収穫があるとあえて誤魔化すことは間違いだろうか? 弱気で逃げ腰で考え無しのお前に細やかな希望や意味や価値を匂わせることの甲斐はないだろうか? 俺が自分でくるくると回転しながら踊れるのなら踊って見せてやらんこともないのだが、生憎とそれはできないのだから、小手先の言葉遊びで貴様を攪乱するほかないのではないか? 俺はお前の敵ではないけれど、お前が俺を敵だと思っていた方がお前にとっては好都合だろうから、俺はお前に問いだけを投げて、お前の一切の答えには耳を貸さないことにする、お前の答え合わせには付き合わない。お前の投げた問いは受け取らない、お前が勝手に跳ね返ってきたそれをどうにかすればいい、お前はお前という味方を裏切って敵になることでお前を味方につけたいのかもしれないが、お前はお前という大きな敵から逃れたいがために俺という敵に対して一時お前と手を取り合って共に戦っている絵図面を描きたいだけなのだ、だから俺の言いたいこと、きっとわかってない。わかるだろ?」 「わかった、お前は俺の眠気を誘いたいのだ。俺を眠りに陥らせ、俺が良い夢を見るにせよ、悪い夢を見るにせよ、現実のような夢を見るにせよ、突拍子もない夢を『……やめろ。』見るにせよ、忘れる夢を見るに...