紙コップが話しかけてきた話(17)
裸だったからといって、どうということはない、といえばそれまでなのだが、問題はいつから裸だったか、ということである。 読者諸氏においては、この話のはじめから今の今まで、特に断りもなかったゆえ、僕についてのイメージには、常に何らかの衣服を纏わせていたのではなかろうか。もちろん具体的に何を着ていたか、というお仕着せがましくも誠実なイメージを、わざわざ構成するといった労を支払う人は決して多くはないだろうから、僕が身を置いているであろう時代や文化や環境や状況に相応しく、読者の特に好きでも嫌いでもない色合いで、非意図的で、自然で、誰の気分も害さず、喜ばせもせず、何らの意味も持たず、価値づけもされえず、あるにはあるが、あたかもないようにしか作用も機能もせず、見目麗しくはないが見苦しくもない程度の何かを装わせていたのだろう。僕が身を置いているであろう時代や文化や環境や状況というものが明確に措定されているわけではなく、読者の好き嫌いは実に多様で、色合いと言った感覚的刺激に対する好悪の判定も、価値基準の対象になるか否かも、価値基準そのものが正当か不当かも、いずれにせよ事後的に評価するほかなく、それらのイメージが実現も検証もされない以上、永遠にその「事後」の機会が訪れることはないのだし、仮に僕が裸ではなかったとしても、そのような衣服も、そのような衣服を着ている何者も、どこにも存在しえないのだから、そのような衣服を、ここにいるこの僕が着ているわけもないのではあるが。 重要なことは、「何らかの衣服を僕が着ている」というイメージが、明確に誤りであるという点だ。つまり、僕が紙コップに話しかけられたときも、紙コップの数を数えていたときも、紙コップと対話していたときも、紙コップについて考えていたときも、紙コップについて考えていなかったときも、紙コップを見つめていたときも、紙コップから目をそらしていたときも、紙コップになろうとしていたときも、紙コップになりきれなかったときも、紙コップを記憶していたときも、紙コップを忘れていたときも、紙コップの歌を聴いていたときも、紙コップの詩を聞き逃していたときも、紙コップになにか書きつけていたときも、紙コップに何かを書きそこねていたときも、紙コップの外にいたときも、紙コップの内にいたときも、僕は裸だったということだ(僕が自分自身でそう気づいていなかっただけで)。誠実...