紙コップが話しかけてきた話(14)
しかし書き留めたところで、僕はドレミを知らず、ファソラを見る目もなく、シを聞く耳を持たなかった。最も肝心なメロディは余すことなく取り零され、最も余計な詩のみが取り留めもなく書き残された。
計算に必要な数直線を引こうとしていた僕は、そのまま横に真っ直ぐの線を5回引いた。僕にはそれ以上、黒い染みをつけることができないことはわかっていた。わかっていてもやってしまった。
ドとレとミとファとソとラとシとドの間の音(しかしちょうど中間にはない)、ドでありレでありミでありファでありソでありラでありシでありドでもある音、ドでもいいレ、ミのないファ、ソの気のないラ、シを待つド。幾つかの線の間の幾つかの点。流れる音色を封じることにしくじり、ありもしない音を閉じ込め、再生するべきものもなく、再生することもできない黒点。
詰まるところそれは、何かがあることの徴としての点ではなく、ただ何もないことを示す穴、孔、坑だった。なにも産み出さないまま膿を出す、留意すべき遺留物の移流先となる流域にただひとつ浮かぶ島であり、かつ大海に唯一つ隆起することで穴を穿つ大陸。無人島であり無動物島であり無虫島であり無植物島であり無鉱物島であり無機物島であり無国籍であり無農薬であり無頓着であり無認可であり無差別であり無責任であり無節操であり無論島である無色の島。
ここがお前の暮らす場所だと、だれかにぽつりと呟かれた気がした。ここは僕の島ではないけど、僕だけの島なのだからと。
もうこのときには、脳内の紙に書き記された五線譜は、眼前の紙コップの表面に写し込まれていた。他ならぬ僕の手によって。右手に持ったペンで、左手に持った紙コップに。左手に持ったペンで、右手に持った紙コップに。口に加えたペンで、両手に持った紙コップに。
記した点のひとつから、インキが垂れた。地から吹き出す石油のように、川へ流れる下水のように、開いていないはずの穴から染み出すように、次から次へと、別の点からも立て続けに黒い液体が五線譜を汚しはじめた。垂直に垂れたインキの軌跡が、点から線を形づくるように見えた。気がつけばはじめにあった横の線と後からできた縦の線が交わり、五線譜は升目になった。ただそこに存在していなかっただけの点は、何かを閉じ込めるための囲いに変わった。何も閉じ込めず、ただ一定の領域のみを閉じてしまっている囲いだ。寄り添い寄せ集められながら、隣人との交流を一切絶ち切られている網の目(むろん、別段行き交うべき何ものもお互いにありはしないのだけれど)。この血も通わない二次元的な閉塞を打破するには、三次元的な逃避又は文字通りの飛躍が必要だと僕は気づいた。
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