紙コップが話しかけてきた話(11)
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この空白を埋めることが、俺が俺に課した、誰もが誰にも課すことのない、記録と記憶の役割のように思われた。
俺は記録しなかったことを記憶した。俺は記憶しなかったことを記録した。記録したうえで、記憶したことは存在しなかった。記憶したうえで、記録したことも存在しなかった。記録もせず、記憶もしなかったことのみが存在していた。今もなお存在しているのは、記録にも記憶にも居を構えないことだけだ。記憶も記録も、存在のなかでは、居たたまれないままである。
※いずれにしても、俺に描写できるのは俺が描写できることだけで、始めから起ころうが起こるまいが、そこにさしたる差異はないのではあるが。
すべてはその場に居ながらにして、居ないようにしか振る舞えなかった俺の感傷だ。始めから居ないように、居なくなれば良かった。今また無為な記録と記憶が記述されている。空白は埋まることなく、新たに生まれた文字列は、ただ各々が生じた新たな場を占有した。いずれ腐り落ちる足場のうえに、腐れたその身を横たえて、腐臭を立ち昇らせることしかできないのに。
まさにそのとき、かつて俺から滴り落ちたあの水滴が、ついに気化した。誰にも気に掛けられることもなく生じ、誰にも気にされることもなく在り、誰にも気づかれないままに、誰にも気づかれないものへと変性した。それは決定的な別離であった。俺が別れた水滴と、水滴と別れた俺が、水滴と再会する俺と、俺が再会する水滴を失った。気化した水滴が俺の内に浸透しようとも、俺が気化した水滴の内に包みこまれようとも、俺と水滴の絆は回復しないのだ。これを空白と言わず何と言おうか。もはや帰化することのない気化!
俺と水滴を引き裂いた紙コップは、水滴と俺を仲立ちすることもなく、口を開けて何かを待ち、新たに何かを語りはじめることもない。そして沈黙が訪れた。つまり何も訪れない時間と空間と、間に合わないままの思考の残滓。
自分がどこで何をしているのか、この空間のなかで何がどこにあるのか、どこに何があるべきなのか、何のためにどこにあるべきなのか、なぜそこにあるのか、なんのためにそこにあるのか、なぜそのものが私の手の中にないのか、あるべきものがあるべきところに在るべき形であるべきように、ありはしないのか…。
思考は組み立てられることのないまま、生まれた途端に瓦解していく。分割の際に生じた空隙から新たな思考が生じ、その考えが伸長するころには、地に張り巡らせた根からも剥がれ、肥大化した思いはやがて自重に耐え切れず崩壊する。
時計を見るが、私は時計を見ることなく、時間をこそ見ようとする、何よりも残り時間を。自らが稼働できる時間を、何かに費やせる時間を、ただ目減りする時間を。時を告げない時計の動く針の回転を追うことなく、私はいつもそこで置いて行かれる。時計の針を動かすネジが止まる時のように、私の時は何時の間にか止まるか。時計の針を動かすネジを動かす電池が切れる時のように、私の時は間もなく止まるか。時計の針を動かすネジを動かす電池を動かす太陽が沈む時のように、私の時は時をかけて止まるか。
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