紙コップが話しかけてきた話(7)
「及第点なら、さっさと答えを教えてくれないか、何が言いたいのか言ってくれ」
「そんなに焦らなくても良い。お前はすでに答えにたどり着いているようなものだ。いや、答えにたどり着いているわけではないのだが。つねに前提は結論と同義であり、論証の過程は目標へと向かう旅路ではなく、いつも出発するところに近いうちに帰ってくる事が分かり切っているような、ちょっとした気の抜けた散歩のようなものにすぎない。お前は結局考えているようで考えることを投げ捨てるようにしか考えられない。逃げないようにすることで逃げることから逃げることしかできない。お前は姑息だ、姑息さに対しても姑息だ。お前の考えを問うたことで、お前の役には微塵も立たなかったけれど、お前の考え方の不足を推し量ることには些か成果が上がったのだから、収穫はあったということにしておこう。いや、収穫があるわけではなく、収支は明らかにマイナスだし、収支の計算をする分の労力も加えれば何もかも減るばかりだし、つまるところ俺たちは互いにただ喪失するに任せているだけなのだから、収穫がないと口にすることが正しい。それでも収穫があるとあえて誤魔化すことは間違いだろうか? 弱気で逃げ腰で考え無しのお前に細やかな希望や意味や価値を匂わせることの甲斐はないだろうか? 俺が自分でくるくると回転しながら踊れるのなら踊って見せてやらんこともないのだが、生憎とそれはできないのだから、小手先の言葉遊びで貴様を攪乱するほかないのではないか? 俺はお前の敵ではないけれど、お前が俺を敵だと思っていた方がお前にとっては好都合だろうから、俺はお前に問いだけを投げて、お前の一切の答えには耳を貸さないことにする、お前の答え合わせには付き合わない。お前の投げた問いは受け取らない、お前が勝手に跳ね返ってきたそれをどうにかすればいい、お前はお前という味方を裏切って敵になることでお前を味方につけたいのかもしれないが、お前はお前という大きな敵から逃れたいがために俺という敵に対して一時お前と手を取り合って共に戦っている絵図面を描きたいだけなのだ、だから俺の言いたいこと、きっとわかってない。わかるだろ?」
「わかった、お前は俺の眠気を誘いたいのだ。俺を眠りに陥らせ、俺が良い夢を見るにせよ、悪い夢を見るにせよ、現実のような夢を見るにせよ、突拍子もない夢を『……やめろ。』見るにせよ、忘れる夢を見るにせよ、忘れられない夢を見るにせよ、過去の夢を見るにせよ、未来の夢を見るにせよ、神や先祖が何かを告げる夢を見るにせよ、夢を見ない『……やめろ!』にせよ、夢を見ない夢を見るにせよ、夢を見る夢を見ないにせよ、俺をこの現実から遠ざけておいて、なにもかもをその間に成しとげてしまう心算なんだな! 俺の身体か、俺の持ちものか、何かはわからな『……や……めろ!』いが、俺が覚醒している間の理性や記憶や感情や思考や言語や性格や人格や嗜好や空想や妄想や夢や希望や絶望や知覚や知識や感覚や意識や無意識以外のものならなんでも、なんで『やめろ…! 今は俺の番なんだ……! でしゃばってくるんじゃあない……!』も掠め取る気でいるんだろう。紙コップでしかない紙コップのお前が、紙コップの如き薄っぺらさで紙コップらしか『や、やめ……ぐぐぐぐぐぅ……、うううあぁああああああああ!!!!』らぬ……紙コップうるさーーーーーーーい!!!!!!!」
俺がやっと己の思いの丈をぶちまけているというのに、この紙コップときたら、俺の話を一切耳にも口にも入れず、なにやら苦しんでいる様であった。随分とふざけた話だ。黙って考えろというから黙って考えていたというのに、俺が黙ることなく黙っていたことに文句を言い、ひとが黙って喋っていれば、ひとが黙って喋っていたというのに、沈黙も傾聴もせず喘ぎ呻き声をあげているのだ。貴様の苦しみを無視して紡いだ言葉の連鎖を無視して苦しんでいるなど、不届き千万も良いところだ。あまりに五月蠅いので、こちらも五月蠅く「五月蠅い!」と五月蠅くしてしまった。当の五月蠅い紙コップはというと、耳に五月蠅い叫び声をあげたその後は、叫び終えているのでもはや耳に五月蠅くはなく、それによって直前の叫び声を殊更に五月蠅いものにしていたのだが、差し当って今は耳に五月蠅いとは言えない状態にあり、しかしながら、ぶるぶると身を震わせているので目に五月蠅い様を呈していた。補足しておけば、叫び声をあげて耳に五月蠅い存在であった時にも紙コップは今と同程度かそれ以上に五月蠅く身を振動させていたのであるが、五月蠅さの振動が目よりも耳を通して只管に耳を五月蠅くしたために、目の五月蠅さは目から逃れて勝手に五月蠅くやっていた、もしくは耳の五月蠅さに加担していた、目の五月蠅さでありながら耳の五月蠅さの陰となり、その五月蝿さに寄り添い、その五月蠅さを支え、なお自らの五月蠅さの全てが耳の五月蠅さの凡てのうちに含みこまれているかのようであり、それ故にこそ目の五月蠅さが享受すべきあらゆる賞賛も、あらゆる批難も、あらゆる盲信も、あらゆる失望も、あらゆる視線も、あらゆる無視も、それら総てが耳の五月蝿さのものとなった。目の五月蝿さの抱く夢も、果たすべき責務も、辿る道筋も、同じく耳の五月蝿さが負っていたので、目の五月蠅さにとって耳の五月蠅さは、もはや必要かつ必須かつ不可欠のものであり、翻って耳の五月蠅さにとって目の五月蠅さは、不必要かつ不要かつ無用かつ御無用!にすぎないと思われていたのであるが、今や耳の五月蠅さは何時の間にか鳴りを潜め、鮮烈なる五月蠅さの想い出のみを耳に刻み、もはや五月蝿さの残響となり、目の五月蠅さのみを独り取り残した。目の五月蠅さが、耳の五月蠅さの忘れ形見のように独り震えていた。
その震えも振るえも奮えも、その振動も震動も、その揺れも、次第に消えていくのが見てとれた。紙コップ自身の3倍はあろうかという大きな揺れ幅が、2.9倍になり、2.8倍になり、2.7倍になり、2.6倍になり、2.5倍になり、2.4倍になり、2.3倍になり、2.2倍になり、2.1倍になり、2.0倍になり、1.9倍になり、1.8倍になり1.7倍になり、1.6倍になり、1.5倍になり、1.4倍になり、1.3倍になり、1.2倍になり、1.1倍になり、1.0倍になり、0.9倍になり、0.8倍になり、0.7倍になり、0.6倍になり、0.5倍になり、0.4倍になり、0.3倍になり、0.2倍になり、0.1倍になり、0.09倍になり、0.08倍になり、0.07倍になり、0.06倍になり、0.05倍になり、0.04倍になり、0.03倍になり、0.02倍になり、0.01倍になり――――俺の意識的な感覚にとっては、いよいよ微細に極小に無差別になり、目にも耳にも肌にも感じられなくなった。まるで大地震が起こる前後の流れを逆再生しているようであった。正しくは、大地震こそが、この五月蝿さの静寂への道程を模倣した、単なる逆再生にすぎないのであるが。
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