紙コップが話しかけてきた話(9)

まるで、今までずっと籠っていた洞穴からでも出てきたかのような台詞だった。俺は、紙コップ自身が洞穴みたいなかたちをしているのに、そんな言葉が出て来るのが可笑しくて、小さく鼻を鳴らした。

「なんだ、急に苦しみだして急に静かになったから、急に死んだか、急に眠ったかと思ったよ。だからと言って、急に生き返ることも、急に目覚めることもないと思うがね」

俺はその可笑しみを押し隠すために、半ば嘲りを込めて正直に皮肉を述べた。紙コップは、それに対して怒りや皮肉や憐れみで応ずるのではなく、次のように答えた。

「あぁ、いえ、お騒がせして申し訳ありません。不快な思いをさせたのなら謝罪します。どうか御容赦のほどを」

これには紙コップが騒がしくなったときより、静かになったときより、話しかけてきたときよりも面食らった。申し訳ない? 謝罪? 御容赦? 尊大な紙コップには、似つかわしくないにも程がある言葉たちだ。この紙コップは本当におかしくなってしまったのだろうか? かくなる上は、こちらも本気で可笑しく笑ってやるべきなのだろうか? だが、本当におかしいと感じることに対して抱くこの言い知れぬ不安はなんなのだろう? この不安の覆いの下では、笑い声すら立てずに息を潜めてやり過ごすことが正解に思えないか? よしんば笑ってみたところで、きっと笑い声は渇いて掠れて、今いる小さな部屋どころか紙コップの中すら満たせずにかき消え、伽藍堂に空の紙コップと虚ろな俺を取り残すに違いないのではなかろうか? その様をいったい誰が笑ってくれるというのだろう?

言葉を失った俺を見かねたのか、紙コップはこう続けた。いや、続ける前に書き留めておくべきことがある。言葉を失ったと書いたが、俺は言葉を失ったのではあるまい。俺は何も失っていない。何も俺は失っていない。失って俺は何もいない。いない俺は何も失って。俺は何もいない失って。何も俺は失っていない。失って俺はいない何も。いない俺は失って何も。俺は失っていない何も。何も失って俺はいない。失って何も俺はいない。いない何も俺は失って。俺は失って何もいない。何も失っていない俺は。失って何もいない俺は。いない何も失って俺は。俺はいない何も失って。何もいない俺は失って。失っていない俺は何も。いない失って俺は何も。俺はいない失って何も。何もいない失って俺は。失っていない何も俺は。いない失って何も俺は。俺は言葉を失ったのではあるまい、言葉を失ったと書いたが。紙コップはこう続けた、言葉を失った俺を見かねたのか。

「ははぁ、いや、これは重ねて失礼を。まるで人が変わったかのような態度に面食らってしまった、といったところでしょうか? いや、人が変わった、ヒト、というのは良くない……人は変っていないのだから。かといって、紙コップが変わっている…わけでもありませんしね。言うなれば、人格が、性格が、キャラが、仮面が、ペルソナが、性質が、質が、個性が、パーソナリティが、通性が、特性が、本性が、性が、性分が、品性が、性状が、性向が、気質が、気性が、気心が、気前が、気風が、毛色が、毛並みが、意地が、根性が、性根が、心根が、底意地が、ヒューマニティが、人柄が、人となりが、風格が、徳性が、言葉が、印象が、本質が、まるで違ってしまったのでありますから。驚くのも無理はないのです。礼を失してしまいましたな、ご説明を欠いてしまいましたな、本題を失ってしまいましたな」

私は驚愕した。あまりのことに、問いを返さずにはいられなかった。そして私は得心した。いざや、私は完全に理解したのである。

「なんだって!? つまりどういうことなんだ?! あぁ、そういうことか! なるほどな、完全に理解したぞ!!」

この時の私の理解の充実による歓喜は、喩えようもなく、言葉では言い表せないほどに、理解不能性に満ちていた。まさに不理解が理解に転じるその瞬間――理解の立場から不理解の立場を振り返って理解できず、不理解の側から理解の側を予め理解して振り替えていた過程を過ぎて――私は人間ではなくひとつの紙コップにその身と心と全てをやつしていた。私は私でありながらもはや私ではなく頭の先からつま先までと口から底まで紙コップだった。あんなにも当たり前であった人の世界は掻き消えて、世界から人も掻き消えて、もはや人のことなど何ひとつわかりはしなくなった。人間など底抜けの紙コップよりも取るに足りない、紙コップの吐瀉物の廃棄場に過ぎない。私は回転することのないまま、宇宙の円周軌道そのものだ。覗きこめば月の天体だ(光の加減により三日月と黒い影だ)。私は私の虚空を囲う。私は空虚の底を私自身で支えるが、その出口を閉じることはない。私は絶えず外側に捲き込まれていく。巻き返しに垂直に交わる私の継ぎ目はこれ以上私を開くことも閉じることもしない、ただ辛うじてその段差の痕跡を徐々にすり減らしていく。私は裏返しになって行く途中のまま止まっている。私はすべてを明け渡す準備ができているが、それを果たしたことはない。受け入れるまま取りこぼしてしまう。喩えようもなく満ちた歓喜を私の内側で浸す私は紙コップだ――――。

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