紙コップが話しかけてきた話(10)
「それはいけません。」
ぴしゃりと紙コップは言ってのけた。ぴしゃりと? 私には何の液体も注いではいなかったというのに、まるで水が撥ね落ちるような喩えを言動で表すとは、こいつは紙コップの分際で本当に紙コップか? 私はお前に何も注ぎはしなかったし、お前も俺に何も注ぎはしなかったし、これからも注がないし充たされることもないだろう。それでもぴしゃりと言うのなら、さぁ、どこに水の痕跡があるというのだ。私はいまだ汗のひとつもかかず、唾も垂れず、涙も流していはしない。机の上にもテーブルの上にも椅子の上にも床の上にもそんなものはないに違いない。紙コップの底の裏の下に隠しているというのなら見せてみるがいい。見るまでもなくそんなものはありはしないだろう、見ることなど俺にはできないのだから。あぁ、お前は姿・形こそ紙コップだがそれゆえに紙コップそのものから最も遠い場所にいる。紙コップ以上に紙コップである私の前では厳に慎み、その身の程を弁えたまえ。紙コップの前に立つ紙コップに似た何ものかほど惨めなものはない。私はぴしゃりとそう言ってやった。
「あぁ、いけないいけない、これは無理解よりもたちの悪い誤解よりも醜悪な過剰な理解です」
そもそも理解というものは、漸進するものであって前進するものではない。
前進しているのだと信じているときには、たいてい理解は進んではいない。
進んでいるのは理解ではなく、思い込みであり、欲望であり、虚栄である。
もしも君が前進してしまっているとすれば、それは君が理解しようとする、
もしくは理解しなければならないものから、どんどんと離れていっている、
ということに他ならない。君が進んでいる時に、君の理解の対象はその場…
つまり君が理解を試み始めた理解の対象が占めている場所ということだが…
その場所に置き去りにされ、取り残され、忘れ去られ、ただ留めおかれる…
君は他の誰よりも理解していると思い込みながら、もう見てすらいない――
君の目に映っているのは君が理解するに足ると信じる都合のいいもので――
もはや理解の対象の残り滓ですらない。初めから無いも同然の君の外の物!
君は君の流儀で理解する。理解の対象を暴力的に君の理解の形に変形する!
あるべき理解というものは、対象を支配するために行使されてはならない!
「得るために理解するのではない。失うことが理解するということなのだ」
「多く知ることや早く知ることは、理解においては無為なことでしかない」
『だからあなたは紙コップのことを、あなたが思うほどには理解していないのです。』
紙コップは、こちらを諭すように言った。いや、違う。確かこうだ。
『だからあなたは紙コップのことを、あなたが思うほどには理解していないのです、』
紙コップは、何かを続けて口に出そうとして、そしてやめた。いや、違う。確かこうだ。
『だからあなたは紙コップのことを、あなたが思うほどには理解していないのです…』
紙コップは、どうせこちらに理解できるはずもないが、という憐れみを込めてそう言った。
いや、違う。確かこうだ。
『だからあなたは紙コップのことを、あなたが思うほどには理解していないのです――』
紙コップは、まるで自分に言い聞かせるかのように、余韻を残してそう言った。
いや、違う。確かこうだ。
『だからあなたは紙コップのことを、あなたが思うほどには理解していないのです!』
紙コップは、ぴしゃりと言ってのけた(あぁまたしても、何と言うことだろうか!)。
いや、違う。確かこうだ。
「だからあなたは紙コップのことを、あなたが思うほどには理解していないのです」
そう、紙コップは、今まさに、そう言ってのけた。と同時に、俺もそれを口に出した。
「だからあなたは紙コップのことを、あなたが思うほどには理解していないのです」
「「だからあなたは紙コップのことを、あなたが思うほどには理解していないのです」」
突き合わされ、重なり合わされ、口の裏と表を合わせた言葉は、しかし増幅することはなく、互いに打ち消し合った。鏡写しのように位相を反転させて、高い波は低い波と出会い、低い波は高い波と出会い、波風の立たない平らな地平を眼前に開いた。紙コップの逆相が俺なのか、俺の逆相が紙コップなのか、それはもはやどうでもいいことだ。なぜなら我も汝も消えてしまったのだから。
(だからあなたは紙コップのことを、あなたが思うほどには理解していないのです)
まるで同じ文言が、まるで同じ声量で、まるで同じ音程で、まるで同じ音質で、まるで同じ音階で、まるで同じ口の動きで、まるで同じ舌の動きで、まるで同じ喉の動きで、まるで同じ肺の動きで、まるで同じ時間を、まるで同じ空間に、まるで同じ導線を過ぎながら、まるで同じ振れ幅で、まるで同じ揺れ高で、まるで異なる正反対の方向に投げ掛けられたがために、それらのまるで同じ一切のものは失われた。まるではじめからその言葉が口になどされなかったかのように。
「 」
始めから起こらなかったことを何故俺は描写したのか。
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