紙コップが話しかけてきた話(15)
気づくや否や、僕はペンを持ち、升目にまた立ち向かった。ペンを突き立てるや否や、気づいた。いつの間にやら、僕は紙コップに向かわず、この部屋の壁に向ってペンを向けている。それでいておかしなことに、先程の升目は変らず僕の前にあるのだ。つまりは、紙コップの表面に書き込まれていたはずの升目がそのまま、目の前の壁に書き写されていた恰好になる。紙コップは消えてしまっていた。いつ消えてしまったのか? 僕が升目を変えようとしたときか? 五線譜が升目に変ったときか? 升目が五線譜に代わったときか? 紙コップを持ったときか? 頭の中に五線譜が書かれたときか? 紙コップに話しかけたときか? 紙コップが話しかけてきたときか? 紙コップに口をつけたときか? (この小説を見返せば、紙コップの消えてしまったその瞬間の記述を見つけることが出来るのだろうか?)それとも、そのいつでもないいつかに、いつの間にか消えてしまったのか?
黒い落書きあるいは絵画あるいはイラストあるいはデザインが描き込まれた(ペンキの掠れ具合から言って、この図形が描かれたのは少なく見積もって5~6年は前のことだろう)白い壁の前で、刷毛を手にした僕は茫然とした。
ただ消えてしまったことは確かなのだ。確かなものが消えてしまったことも、確かでなかったものが消えてしまったことも、等しく確かなことだった。
紙コップが消えたことについて、僕が確信を得たとき、僕は紙コップがある場所に気づいた。いや、正確には、紙コップが僕のいる場所だと気づいたのだ。
「この部屋は…紙コップじゃないか」
白い壁、白い床、ぐるりと円を描いた部屋。天井は吹き抜けで、天の底は見とおせないほどに昏かった。内壁に設えられた常夜灯の光が、部屋の白色の反射に吐き出され、夜に吸い込まれている。
僕は壁に触れてみた。ざらざらとした手触り。僕は壁を叩いてみた。ゴツゴツとした堅さ。
僕は床を踏みつけてみた。ゴツゴツとした堅さ。僕は床に触れてみた。ざらざらとした手触り。僕は床から壁までなめるように舐めてみた。カラカラと乾いていた。僕は床から壁まで慈しむように口付けてみた。ピチャピチャに濡れていた。僕はペチャクチャと何事かを口にしてみた。部屋のなかは変わらずしんとしていた。
その他にもいろいろなことを試してみたが、僕の五感の総てが、この場を紙コップの中ではないと告げていた。にも拘らず、僕はこの場が紙コップの中であると認識した。殊更、僕がつい先ほどまでかかずらわっていたあの紙コップの内側であると、僕は断定した。
「僕は紙コップの外にいたと思っていたが、いつの間に紙コップの中にいることになってしまったのだ?」
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