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架空索道を渡って

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眠い目をこすりながら 男が架空索道を渡っていく 眠いのじゃあなくて  太陽に目が眩むから が男の口癖 昨日は 索条にぶら下がり懸垂しながら進んでいった 今日は 索条の上を裸足で躙って行った 明日もそしてこれから先も 男はゴンドラを使わない 空を飛べないのなら この体一つで風を感じたい が男の口癖 索条に揺られながら 鼻唄まじりで ときに自ら揺らしながら 確りと進んでいく おまえ  谷底に落ちるのが怖くないのかい なんて  聞けもせずに黙り込むのが俺の癖 眠い目をこすりながら 男が架空索道を渡っていく それを瞬きもせず 見つめる男がひとり 朝靄に包まれた向こう岸を 見通すこともできないまま 誰が懸けたのかも知らないこの索条を  切り落とすこともできないまま 

祖母がオレオレ詐欺の被害に遭ってしまった

祖母がオレオレ詐欺の被害に遭ったらしい。 祖母はサ高住で独り暮らしをしている。 週1程度で様子を見に行く親づてに聞いたことである。(被害届は提出済み) テレビのニュースでは毎日のようにオレオレ詐欺ほか特殊詐欺への注意喚起がなされているが、まさかの身内が被害に遭ってしまった。至極残念だ。 ●オレオレ詐欺は身近な存在である 警察庁の「特殊詐欺対策ページ」( https://www.npa.go.jp/bureau/safetylife/sos47/circumstances/ )によると、2020年に発生した特殊詐欺の認知件数合計は 13,550件 で、合計被害額は 285億2,335万9,039円 にも上るという。 誠に残念なことだが、現在の日本ではオレオレ詐欺が多く発生しており、いつ身近な人が被害に遭ってしまうかわからない状況だ。 だが、ただそうした詐欺があるということを知っているだけでは、対策には不十分なようだ。 ●オレオレ詐欺の存在を知っているだけではリスク 祖母も当然、テレビのニュースは日常的に見ているので、オレオレ詐欺については認知していた。だが、今回被害に遭ってしまった。 警察庁の「特殊詐欺認知・検挙状況等について」( https://www.npa.go.jp/publications/statistics/sousa/sagi.html )の広報資料「 オレオレ詐欺被害者等調査の概要について 」を読んでみると、オレオレ詐欺の認知度は被害者で 96.9% だが、同時に 「(どちらかといえば)自分は被害にあわないと思っていた」 と回答した人も 95.2% に上っている。 資料でも指摘されているが、自分が詐欺に遭ってしまう可能性を過小評価してしまっているので、予め適切な予防策・措置を講じることができていないのではないだろうか。 もちろんそれは被害者当人だけの責任ではない。家族・親戚・知り合いなどが被害の可能性を考慮し、協力して対策していくのが望ましいだろう。 ●オレオレ詐欺の事象 (祖母の場合) 聞いた限り、おおよそ下記の流れだったようである。 電話がかかってきて、祖母の息子だと名前を伝えてくる 声が違うと質問すると、風邪をひいたと返してくる 現金の入ったカバンをなくして、困ったので助けてくれと言われる 頼られたので奮起した祖母、言われるがまま複数の金融機関...

ノート2

今日という日は2度とは来ない。 明日はいつも来るようで、来てみたら今日という明日ではない日。 「昨日はどこにもありません」と詩にしていたのは三好達治だったか。 希望。価値を感じるもの。好きなもの。 言葉にすると、なぜだか途端に、自分にとっての希望でなくなる。 価値が薄れる。好きではないような気がしてくる。 熱が冷め、輝きが失せ、喜びは虚ろになる。 語り得ぬものは語り得ぬままに。 自分が時間を懸けて形にした仕事は、他人にとってじゅうぶん顧みられることがない。 なかったコトにされることもあれば、見えないように隠されることもある。 見えていても、それがさも当たり前であるかのように扱われる。 その結果を生み出すのに、当たり前の力をかけているわけではないのに。 要するに、報いがない。 だが、それこそが当たり前のことであるのかもしれない。 この自分の目に映る殆どのものが、他人の仕事の結果、生み出されたものである。 それなのに、自分はそれらを生み出した人々になにか報いただろうか? 感謝の言葉一つ、投げかけただろうか? 試みすらしていないのでは? 自分が無意識に期待しているものを、そもそも他人に与えていないのであれば、自分が与えられないのも当然の帰結ではないだろうか? いやそもそも、自分が何を与えて、何を与えられているのかを明確に把握していないのだ。 だから、人の仕事は見えていないし、それに報いることもできていない。 だから、自分の仕事も人に見えていないし、報いが与えられることもない。 自分の仕事が何をもたらしているのか、何を人に与えることができるのか。 じっくりと考えてみなければならない。 翻って、自分が普段当たり前のように享受している諸々のことが、どういった仕事の結果なのか、注視してもいいのではないだろうか。 実のところ、当たり前のことをどのように捉えるか、ということに"当たり前"はないのだ。 当たり前のことかもしれないけれど。 ©Keiichi Yoda

新型コロナウイルスワクチン接種を受けた(1回め)

ようやくワクチン接種(1回め)を受けることができた。 自分の年代の予約が可能となってから、初週は先着予約に漏れてしまったが、その翌週2回めのチャレンジでは自治体の大規模接種会場を予約することができた。 自分のネットワーク環境の問題かもしれないが、PCよりスマートフォンのほうがスムーズに予約サイトに接続ができた。たまたまかもしれないが。 当方の自治体では、最寄りの駅と会場を往復する無料のシャトルバスが運行していたので、迷うことも歩き疲れることもなくて助かった。駅ナカにはバス乗り場への案内表示、駅前にも案内係の人が立っていてありがたいことだった。 シャトルバスは通常の市営バスと同様の車体で、アルコールスプレーも備え付けられていた。また、どういった配慮なのかは不明だが、窓には一面遮光?シールのようなものが貼られていて、車内も車外もよく見えないようにされていた。別に悪いわけではないが、ちょっとした護送車のよう。 会場には早く着きすぎてしまったので、受付時間までは会場外で待った。若干数座れるところがあってそこは助かった。 会場での流れはおおよそ下の順序だった。 書類の準備(書いてない人は予診票の記入) 受付(本人確認) 予診票確認 医師による予診 接種 接種後待機 密にならないように、人の間隔をあけながら一つ一つのセクションを進んでいくような感じだ。係の人の案内に従い、会場床の矢印ラインを辿っていく。 書類の準備は接種券や本人確認書類をバインダーに閉じる、実質的な待機時間。接種人数を明確にするために、付添の人の座る椅子はなかった。お疲れ様。 医師による予診では、医師に対して接種についての質問をすることができる。自分は特になかったが、不安のある人は専門家に尋ねるのだろう。 接種は、けっこう肩にちかい上腕部にされたので、半袖のシャツはよく捲りあげなければならなかった。針の痛みなどはほとんど感じず、ほんとに注射されたのか疑わしいくらいだった。 摂取後気分が悪くなることはなかったが、なんとなく慣れない環境だったり、熱中症対策でエアコンがかなり効いていたので、元気元気!とはならなかった。まぁそういうものだろう。 そのままシャトルバスに乗って、駅へ、そして帰宅。夜になると腕の痛みが出てきたが、眠れないほどではなかった。 現在、24時間程度経過しているが、体温は36度7−9分程度、注射され...

倥偬

高層ビルの隙間の空から 一ツ目の巨人が覗き込んでいる 口もなく 鼻もなく 耳もない 真黒な巨人 ガラス窓の照り返しに皮膚を焼かれながら 道行く人々を凝視している 晩夏  人々は地に目を伏せたまま あるき続けるので 巨人には気づかない 太陽と 自分の 間に 差し挟まれている巨人の影に 隠れて いきつくこともないまま 巨人がふいと目を逸らす 目線はぐるりと 腕時計 乳母車 街路樹 電灯 銅像 川 橋 塔 空 を通過していった 再び道行く人々に視線を落とした巨人は 数瞬後 諦めたように目を閉じ それとともに姿を消した 人々と 太陽の間には もうなにもない ©Keiichi Yoda

本質、本質的なものについて

何が本質か、という問いはすでに時代遅れらしい。 「この人(たち)は何を本質(的)とみなすか」、という問いのほうが適当なようだ。 本質とされるものも、人々の環境・文化・社会・状況によって異なるのだから。 むしろ問題なのは、「これが本質だ」と人の言うとき、暗黙裡に優先順位付けが生じさせられることではないだろうか。 本質を捉えることが大事だ、というより、本質さえ捉えらればよい(その他のことは些末なことだ)といったような思考だ。 本質を捉えたい、という言葉の裏に「本質さえ抑えておけば、効率的に対象を扱える」という目論見が見え隠れしている。 限りある時間を有効活用しようとする思考様式であり、ある種、本質的なものすら計量・交換可能なものとして措定している見方だ。 その見方が本質を捉えられないとは言うまいが、「そのようなものとして」本質を捉える見方である、ということはできる。 これが「この人(たち)は何を本質(的)とみなすかという問い」である。 効率的に、優先順位付けの可能性を基礎とした本質的なものについて更に考える。 人体の中で本質的な部位はどこか?という問いを試しに立ててみよう。 脳かもしれない、心臓かもしれない、人によっては顔だと言うかもしれない。 まさに何を本質(的)とみなすかの差である。 ここで注意しなければならないのは、脳あるいは心臓が本質的であるとみなされたからといって、身体の他の部位より優先されるかといえば、必ずしもそうではないということである。 特にこの場合、本質的な心臓・脳さえあればよい、という解には誰しも違和感を覚えるだろう。 心臓や脳が仮に人間にとって本質的だとして、本質的なものだけで構成されたそれはもはや人間ではない。 本質的なものだけを生かしたとしても、それは人間を生かしたことにはならない。 本質的なものが、本質的なもののみで生きているわけではない。 これは重要なことだと思われる。 学問における本質的なものを探求する試みが、本質的なものとそうでないものを解体して分別する手順を取る場合、その過程で研究の対象を「殺して」しまうことになりかねないからだ。 嬉々として本質である心臓や脳を取り出したとして、結果として人間が生きていないのであれば、その手の中にある本質は他の肉塊となんの違いがあるのだろうか。 有名な滑稽話にこんなものがある。 「司法解剖の結果、死因...

健康管理のための歩数記録と目標設定_2021年9月

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人間は歩かなければならない、とは誰も言っていないように思うが、健康のためにはなるべくなら歩いたほうが良いらしい。 筆者は 日経歩数番 ( Google Playリンク )というスマートフォンアプリで歩数を計測している。 月別の比較などは下記ページに掲載し、モニタリングをしていくつもりである。 → 健康管理のための記録 本記事では9月時点(8月まで)の記録を振り返り、今後の歩武の目標を設定しようと思う。 ※月別の、1日あたり歩数平均棒グラフ。 上記のグラフを見て分かる通り、2021年は昨年と比して歩数が減っている。 コロナ禍で在宅勤務が進み、旅行にも行けていない影響が大きい。 とはいえ、健康を守るために健康を損なうことがあってはならないわけで、何かしら歩数を確保していく取り組みが必要であるだろう。 休日等は意識して散歩に行き、家の中でも歩き回る事が大事だ。 とりあえず、年間通して昨年と同水準まで回復させるのは難しいので、9月中は昨年同月の平均を上回る 「一日あたり2,000歩」 を目標として歩いて行こう。 依田稽一