ノート2

今日という日は2度とは来ない。

明日はいつも来るようで、来てみたら今日という明日ではない日。

「昨日はどこにもありません」と詩にしていたのは三好達治だったか。


希望。価値を感じるもの。好きなもの。

言葉にすると、なぜだか途端に、自分にとっての希望でなくなる。

価値が薄れる。好きではないような気がしてくる。

熱が冷め、輝きが失せ、喜びは虚ろになる。

語り得ぬものは語り得ぬままに。


自分が時間を懸けて形にした仕事は、他人にとってじゅうぶん顧みられることがない。

なかったコトにされることもあれば、見えないように隠されることもある。

見えていても、それがさも当たり前であるかのように扱われる。

その結果を生み出すのに、当たり前の力をかけているわけではないのに。

要するに、報いがない。


だが、それこそが当たり前のことであるのかもしれない。

この自分の目に映る殆どのものが、他人の仕事の結果、生み出されたものである。

それなのに、自分はそれらを生み出した人々になにか報いただろうか?

感謝の言葉一つ、投げかけただろうか? 試みすらしていないのでは?

自分が無意識に期待しているものを、そもそも他人に与えていないのであれば、自分が与えられないのも当然の帰結ではないだろうか?


いやそもそも、自分が何を与えて、何を与えられているのかを明確に把握していないのだ。

だから、人の仕事は見えていないし、それに報いることもできていない。

だから、自分の仕事も人に見えていないし、報いが与えられることもない。

自分の仕事が何をもたらしているのか、何を人に与えることができるのか。

じっくりと考えてみなければならない。

翻って、自分が普段当たり前のように享受している諸々のことが、どういった仕事の結果なのか、注視してもいいのではないだろうか。


実のところ、当たり前のことをどのように捉えるか、ということに"当たり前"はないのだ。

当たり前のことかもしれないけれど。


©Keiichi Yoda


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