本質、本質的なものについて

何が本質か、という問いはすでに時代遅れらしい。
「この人(たち)は何を本質(的)とみなすか」、という問いのほうが適当なようだ。
本質とされるものも、人々の環境・文化・社会・状況によって異なるのだから。

むしろ問題なのは、「これが本質だ」と人の言うとき、暗黙裡に優先順位付けが生じさせられることではないだろうか。
本質を捉えることが大事だ、というより、本質さえ捉えらればよい(その他のことは些末なことだ)といったような思考だ。

本質を捉えたい、という言葉の裏に「本質さえ抑えておけば、効率的に対象を扱える」という目論見が見え隠れしている。
限りある時間を有効活用しようとする思考様式であり、ある種、本質的なものすら計量・交換可能なものとして措定している見方だ。
その見方が本質を捉えられないとは言うまいが、「そのようなものとして」本質を捉える見方である、ということはできる。
これが「この人(たち)は何を本質(的)とみなすかという問い」である。

効率的に、優先順位付けの可能性を基礎とした本質的なものについて更に考える。
人体の中で本質的な部位はどこか?という問いを試しに立ててみよう。
脳かもしれない、心臓かもしれない、人によっては顔だと言うかもしれない。
まさに何を本質(的)とみなすかの差である。
ここで注意しなければならないのは、脳あるいは心臓が本質的であるとみなされたからといって、身体の他の部位より優先されるかといえば、必ずしもそうではないということである。

特にこの場合、本質的な心臓・脳さえあればよい、という解には誰しも違和感を覚えるだろう。
心臓や脳が仮に人間にとって本質的だとして、本質的なものだけで構成されたそれはもはや人間ではない。
本質的なものだけを生かしたとしても、それは人間を生かしたことにはならない。

本質的なものが、本質的なもののみで生きているわけではない。
これは重要なことだと思われる。
学問における本質的なものを探求する試みが、本質的なものとそうでないものを解体して分別する手順を取る場合、その過程で研究の対象を「殺して」しまうことになりかねないからだ。

嬉々として本質である心臓や脳を取り出したとして、結果として人間が生きていないのであれば、その手の中にある本質は他の肉塊となんの違いがあるのだろうか。

有名な滑稽話にこんなものがある。

「司法解剖の結果、死因は司法解剖でした」

笑えるセンテンスであるが、ある意味では笑えない。
ひょっとすると、よくあることかもしれないのだから…。

©依田稽一

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