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事切れる土鈴

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本日は晴天なり。 あるいは快晴なり。 蒲色の炒り卵を用意して、 待ちわびた千客万来の座談会。 使い古されたおべっかや、 フリー素材の美辞麗句が、 飛び交う社交の全面戦争。 腰巾着たちは蛇腹でくねくね。 来賓客たちは業腹でうねうね。 ちちはは常々努々捏ね捏ね。 さぁ待ちかねた締め括りの言葉。 「てるてる坊主がお嬢様になってしまわれたぞ」 あるいは 「お嬢様がてるてる坊主になってしまわれたぞ」 本日は晴天なり。 あるいは快晴なり。

中洲の外に取り残される内海、帰らず。

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左利き用のハサミを右手に掴んで 誰かに渡そうと考えたまま、幾日か経過した 臍の緒がついたまま泳ぐカエルの赤子が、 みどりの日までの尊厳死を求め、鳴いている 「ぼくが緑になれなかったとしたら」 「きっとそれが寿命なのだ」 杓子定規な泳ぎ方だが、外は晴れ  パジャマを着たまま公園へ、桜を見に行く ブルーシートの青の下に潜れば、あの空の青の下にいなくて済むのに 暗褐色の花びらが舞い散り、ありふれた白濁を期待していた君は口を開いて俯いた そのリストバンドではくくれない、首が太すぎるから 彼氏の羽振りが良すぎたのが悪いのさ、信号の点滅も追いつかない  手持ちの筋弛緩剤は底をつき、HBのシャープペンシルの先を 動脈にあてがって何よりの慰めとする  この管のほうがまだ太くて、まだ濃いじゃないか 手首から目をそらしたあとは、視線を落として お山の総大将の、真っ青なくるぶしを空目して 地面のような床に耳をつける、そうしてようやく 赤い赤い海が、左手の使い途を教えてくれたのだ

忘れてはならないことなどない

忘れてはならないという忘れられた言葉。 いつか忘れ去られる決意。 それを望んだもの、強いたもの、強いられたもの、ただ復唱したもの。 いつかすべてが忘れ去られる。 それでもヒトは嘘が大好きだから。

夢の話:燃え盛る僕の家・あるいは工場

 今日の夢の話。 僕は誰かを愛そうとしていた。 肉付きのよいふわふわで真白な肌の誰か。 顔はわからない。 後ろから抱きしめていたから。 でも抱きしめようとしても、強く固く抱きしめようとしても、僕の腕は空気の入っていない風船を抱えているようだった。 ----------------- 僕は工場を外から眺めていた。 お米の工場だ。 展示用のウィンドウには、お米が育てられ、出荷されるまでの流れが、笑顔の人々の全身写真とともに陳列されていた。 親子連れが写真を撮ろうとしている。 僕は邪魔だったので身を捩ってかわした。 ----------------- 夜、僕は家にいた。僕が住んだことのない家。 和装の祖父がいた。僕の祖父ではないヒト。 襖を開くと、小高い丘の上にある工場が見えた。 工場は煌めく炎に包まれていた。 大きな火の粉がいくつも夜空を舞っている。 僕は祖父に「この家にも飛び火するのではないか」と伝えた。 祖父はわかったようなわからないような反応をした。 家の倉庫が燃えた。 僕はその家を後にした。 振り返って、左目で工場が燃え盛るのを、右目で家と倉庫が燃え盛るのをみた。 多くの人が、何かをしているようで、何もしてはいなかった。 夜なのに、とても明るい夜だった。

さては胸の苦しみ

 日々やるべきことをやれぬ日々が続く。 心臓は生きるために脈を打つのではなく、その死を早めるために鐘をつく。 さようなら。 暴食により肥大化したはらわたが、心臓を圧迫する。 俯いた胸が、肺を抑え込んだまま。 引きむしることもなく。 なぜ今日も彼は生きているのだろう。

あるいは自分の感情への裏切り

伝聞によってヒトを愛して、なんになろう。 伝聞によってヒトを憎んで、なんになろう。 自分の外のものを愛し、憎むように見えてその実、自分の中で自分の感情と遊んでいるにすぎない。 自分の中で遊んで済めばよいのだが、往々にして、それだけでは飽き足らず、感情を充足させるために、自分の外部のものに対して、帳尻を合わせようとする。 すなわち愛すべきものに愛すべき期待を課し、憎むべきものに憎むべき毀損を与える。 だがその感情の発端は、伝聞である。又聞きである。メディアを通した情報である。 対象の事実はなんら含まれていない。少なくとも、自分の限りある時間を傾けて見つけるべき、愛すべきものも、憎むべきものも。ただ感情が先立ち、先走っているに過ぎない。 満たされないことを予め定められ、生まれた感情。そうあるべくしてあるべきもの。 それを自認できないのだから、苦しみ、ヒトを苦しませるのではないかしら。

考えてもしょうがない責任の話。

 考えてもしょうがない事は考えないほうがよいのかもしれない。 どうしようもないことは。 上司は部下の能力に責任を持つべきだけれど、部下は上司の能力に対して責任はないし責任を負うこともできない。 だから自分にできることは、ほぼない。自分の立場から意見を述べるのがせいぜいだ。そしてその意見をどこまで採るかは、意思決定者次第なのだ。 管理職が期待されている役割を果たせていないことは明白なのだが、それに当人が向き合わなければ、良くなることはない。 期待されている役割、果たすべき責務に対して、了解して対価としての報酬を受け取っているはずなのだが、都合の悪いことは忘却しているらしい。 責務を果たせていないという事実を認識しなければ、責務を果たせていないことにならないと思っているのだろうか。そういうのを世の中では「現実逃避」と表現するのだが、知っているのだろうか? 何かあったら責任を取る、などとうそぶいているが、何かあるまで何もしないつもりなのだろうか。リスクとなる「なにか」を未然に防ぐことこそ、望まれた役割なのではないか?  事後的に責任を取る=役職を降りるということに、果たしてなんの意味があるのだろう。何かあったときに社会的に生じたダメージは、決してなかったことにはならない。完全に元通り回復することはない。 ダメージをそもそも生じさせないこと、不可避的に生じてしまうダメージを最小化すること、生じてしまったダメージをケアするように務めることが、「責任を果たす」ということなのではないのか。 こう考えると、”責任をとってやめる”ことが、単に責任から逃れている行為になっていることがわかる。 責任を果たす能力がないのであれば、それを自己認識したとき、それを他のものに引き継ぐよう務めるべきではないのか。付け加えるなら、絶えず自己の責任について、自己の能力が見合っているのか、自問することが、”責任を果たす”要件だと言っても良い。 責任を果たす能力のないものに、責任を課している状況は、その責務が大きければ大きいほど、重ければ重いほど、社会や組織にとってリスクとなる。 そのリスクをケアすることのできる仕組みがあればよいのだが、その仕組みを作り、育て、継続していくとなると、簡単なことではないだろう。 残念ながら、今の日本でそういった仕組みが一般化されているかというと、そうではない。 責任...