考えてもしょうがない責任の話。
考えてもしょうがない事は考えないほうがよいのかもしれない。
どうしようもないことは。
上司は部下の能力に責任を持つべきだけれど、部下は上司の能力に対して責任はないし責任を負うこともできない。
だから自分にできることは、ほぼない。自分の立場から意見を述べるのがせいぜいだ。そしてその意見をどこまで採るかは、意思決定者次第なのだ。
管理職が期待されている役割を果たせていないことは明白なのだが、それに当人が向き合わなければ、良くなることはない。
期待されている役割、果たすべき責務に対して、了解して対価としての報酬を受け取っているはずなのだが、都合の悪いことは忘却しているらしい。
責務を果たせていないという事実を認識しなければ、責務を果たせていないことにならないと思っているのだろうか。そういうのを世の中では「現実逃避」と表現するのだが、知っているのだろうか?
何かあったら責任を取る、などとうそぶいているが、何かあるまで何もしないつもりなのだろうか。リスクとなる「なにか」を未然に防ぐことこそ、望まれた役割なのではないか?
事後的に責任を取る=役職を降りるということに、果たしてなんの意味があるのだろう。何かあったときに社会的に生じたダメージは、決してなかったことにはならない。完全に元通り回復することはない。
ダメージをそもそも生じさせないこと、不可避的に生じてしまうダメージを最小化すること、生じてしまったダメージをケアするように務めることが、「責任を果たす」ということなのではないのか。
こう考えると、”責任をとってやめる”ことが、単に責任から逃れている行為になっていることがわかる。
責任を果たす能力がないのであれば、それを自己認識したとき、それを他のものに引き継ぐよう務めるべきではないのか。付け加えるなら、絶えず自己の責任について、自己の能力が見合っているのか、自問することが、”責任を果たす”要件だと言っても良い。
責任を果たす能力のないものに、責任を課している状況は、その責務が大きければ大きいほど、重ければ重いほど、社会や組織にとってリスクとなる。
そのリスクをケアすることのできる仕組みがあればよいのだが、その仕組みを作り、育て、継続していくとなると、簡単なことではないだろう。
残念ながら、今の日本でそういった仕組みが一般化されているかというと、そうではない。
責任をとってやめる、という形式のみで落着とみなす悪習が残ったままである。実質的には何も解決していないのに。
結局のところ、よりよい社会のために、良心的な国民一人ひとりが、形式だけの責任“観”に、安易に納得しないことが重要なのではないだろうか。
自身で定義した”責任”に対して、釣り合いの取れた”責任感”を持ち、考えて行動・発言をすること。それが国民一人ひとりの社会的な責任なのである。
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