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短歌まとめ(2022年9月、22首)

  #今日の短歌    でつぶやいた短歌のまとめ。

なにもよくはないから

同意してほしいんだね わかるよ わかるんだけどね そうだね いいね っていうのは 僕にとっては嘘なんだ 嘘をつくのはいいけれど 嘘をつかせられるのは嫌なんだ 僕自身に嘘はつけない なんて自分を騙すから 下手くそな愛想笑い どっちつかずな返事をするんだ  ごめんね 悪いとは思ってないけど 君のいうこと ダメだとも思ってるわけじゃないんだよ  事実と評価の境目が曖昧で一方的で断定的で楽観的で悲観的で 元の形もわからなくなるほどに削ぎ落とした現実の断片を それが全てだと言わんばかりに引き伸ばして強調してるけど (ここまではまぁ 誰でもやっているよね) 問題はさ そんな意見の限界を 君がわかっていないふりして 僕にもわからないふりをさせようとしてくるところなんだよね わからないことはわからないっていう 誠実さすら捨てさせてさ 穴だらけのくせに 穴を指摘するのもバカだし 穴を無視するのも罪だし 現実の穴を塞ごうという気もない君の意見の穴なんか 君が現実を変えるために努力してるんだってポーズを見せたいと端から思ってなきゃ 僕のほうでも気にはしないんだけどさ 知らん顔して後で穴埋めするのは僕なんだよ はぁ これはお説教じゃないんだ 愚痴なんだ  友達なら愚痴ぐらい聞いてくれないかい? 君の愚痴なんか聞きたくないんだ って僕の愚痴を (されて嫌なことを他人にするな? そのとおり いいお説教だね!) ほんとうに言いたいことはそんなことじゃないんだよね それはわかるんだけど ごめんね 君自身がほんとうに言いたいことを探しているんだよね それもわかるんだけど ごめんね 「ほんとう」ってなんなのか わかんなくなってきちゃったよ ごめんね ごめんなさい 

『ココア共和国2022年10月号』佳作掲載と感想

 拙作「正しくはカメムシ目・ヨコバイ亜目・セミ上科の胸部」が、詩誌『ココア共和国2022年10月号』●投稿詩佳作集Ⅰに掲載されました。佳作集は電子版のみの掲載です。 ココア共和国|あきは詩書工房|月刊「ココア共和国」10月号 「とにかくみんなで詩を楽しもうよ」ということが目的のB6版の月刊詩誌、10月号が発売です。電子版は384ページになり、より www.youyour.me 近所を散歩している時に思いついた詩です。 よろしければご観賞ください。 今月も、佳作集投稿詩の作品についての感想です。 同都道府県在住の方々の詩を対象としてみました。 藤田健吾「水になりたかった朝」 不定形であることが定形のイメージである水のように、世界のイメージを捉えた詩ですね。水を通してものを見たら、光の屈折や水そのものの揺らぎによってものが歪んで見えるように、むしろ水そのものとして世界の歪んだイメージに没入していく感覚でしょうか。「方丈記」に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という文がありますが、流れていった水たちは、この詩のように「何であるか」も変わっていってしまっているのかも。あるいはその変化は、詩の中でしか追いかけられないのではないか、という気もしてきます。余談ですが、詩中に「半永久的にむきだした安息角」というフレーズがありまして、「安息角」という言葉を調べてみたらば「(たとえば斜面の土砂などが)滑り出さない限界の角度」のことらしいです。こういう知らない言葉や言葉の使い方に出会えるのも詩の醍醐味のひとつですね。 sion「不可逆の環」 J・S・ミルは「自分は今幸福かと自分の胸に問うて見れば、とたんに幸福ではなくなってしまう。」と言いましたが、この詩でも幸福の形こそが個人を疎外している感覚を覚えることができます。「烙印」という言葉が出てきたのでスティグマ論を思い出しましたが、まさに烙印という傷は不可逆的かつ不可分的に存在に刻まれる傷です。罪人や奴隷であるという「しるし」は、それが焼き入れられたあとも、他者からのまなざしによって継続する痛みの在処なのでしょう。個人的に思ったのが、幸福のイメージに対して幸福の壊れたイメージを持ち出しても、それは幸福のイメージを壊したことにはならない、ということです。「壊れたイメージ」というイメージの形を再生...

駅で男は目覚めた※

駅で男は目覚めた。蝉のジリジリとした鳴き声が、内耳の裏側で鳴り響いていた。男は今や季節が冬となっていることに気がついた。周囲の静寂。1メートル四方の静寂と、視線が届く範囲から想察される視線の届かない範囲から届けられた静寂。ただ蝉の鳴き声を除いた沈黙が、枯れ葉の擦れ合いさえも無音に留めていた。蝉の鳴き声は男の内耳を持続的に揺さぶるが、それが男の幻聴ではないことを男は知っていた。少なくとも蝉の鳴き声は、男の内から生じたものではなかった。かつて男が居た家、3番街、14番地、471号のあの家――屋根裏と、煙突と、格子窓のついた、他に何もない部屋――の暖炉から、その蝉の鳴き声は生じ続けていた。もしその家で男が生まれていたのだとしたら、冬の蝉はそこで鳴き始めなどしなかっただろう。しかし男は生まれてからしばらくして、その家に入り込み、日々を暮らした。男が家を出入りするたびに、蝉は密かに暖炉裏で抜け殻を増やし続けていた。男は意識していなかったが、実質的には男が蝉を飼っていたのだ。飼いならせてはいなかったのだが、男がその家にいる間、男は蝉を飼い続けていた。蝉は抜け殻のまま生まれ、抜け殻のまま暖炉の裏を栖とした。羽化をし損ねた抜け殻の蝉たちは、暖炉に燃え盛る火と燃えさしの間の時を餌として生きながらえていた。男の脳裏には、暖炉の裏一面にびっしりと張り付いた蝉たちの姿が浮かんでいる。鳴きもせず、蠢きもせず、震えもしない蝉の抜け殻たち。男は暖炉の中に痰を吐き出すことで、蝉と対話をしていたことを思い出した。しかし対話の内容と、言語と、目的は思い出せなかった。男にとって、蝉との対話は単なる習慣のなりそこないに過ぎなかった。蝉が鳴こうが鳴くまいが、男にはどうでも良かったのだし、対話はその体裁さえ取り繕われていれば、中身の交感は問題でなかった。対話の実施の事実さえあれば良かった。事実どころか、男自身が事実と認める事のできる程度の振りさえあれば良かった。蝉との対話は男の痰唾ではじまり、蝉の単眼から滴る涙で終わった。蝉にとっては、単眼から滴る涙が、暖炉の熱で乾ききるまでが男との対話であったが、男の知らぬその時こそが、男と蝉との飼育のただ一つの餌であった。男が蝉と居られなくなる前に、男がその家に居ることができなくなった。家と暖炉は一体であり、暖炉と蝉もおよそ一体であったが、男は暖炉とも家とも一体にはなれな...

イメージは後で

私はイメージの前で立ち止まる。薄れゆくイメージの前で、イメージに接収されていく私のイメージをただ見つめている。私と私のイメージの間にある視線のイメージは直線的であるが、瞼を下ろすことで閉ざされる暗闇のイメージは全面的である。眼球の裏側、視神経ではない血管の根が脳と接続し、こめかみの斜め上側面から乾きが私を後ろへ引いていく。イメージの表面を這いずり回る痒みが、ただ空を掻き壊す指の残像を生じさせる。私はイメージの前でただ瞬きをする。霞んだ視界のイメージを回復するため、霞んだ視界のイメージの前で、眼球に癒しの水滴を垂らすべく瞬きをする。私は目を瞑る。私の頭頂部のつむじの頂点から、天へと経路が結ばれる上昇のイメージを私は纏う。無限にも等しい距離が私と天との間には存するが、私と天との間には何ものも存しない。私が頭を振る方へ天は動く。私と天との距離は常に不定であるが、天の重みは時おり私と一致する。私のイメージは私のつむじに穴を開け、天と直通するエレベーターの柱を創り出す。私の指は私の頭の中心となるつむじを探すが、指先はいつも降りるべき地点を誤る。爪先のみが正しく髪をかき分け頭皮を抉る資格を得る。イメージの鏡は私の背後に立つ。イメージは私を映さない。イメージの鏡は私を映す。私のイメージがイメージの鏡を映す。イメージはイメージの鏡に映らない。清澄なるイメージがあたかも私のうちに滞留し、汚濁のように脳へ穴をうがつ腐食性の病巣として夜を囁いているが、それは私がイメージのうちに立つ私を、足をつける地なしに構成した因果に拠って目覚めさせたからに過ぎない。今も私はイメージの前で立ち止まる。形式上の眼を擦り、眼鏡の汚れを拭き取り、フケを払う。イメージの尿意が私を立ち上がらせようと、足を冷やす。私は私の両足を温めるために互いに絡め合い、踵で私の足を踏む。温かさのイメージが、底冷えのするイメージと混じり、両者の明白なる対立が際立つことで私に人肌と私の体温を忘れさせる。私の熱源探知機は、私の熱に色を与える。平面であり、グラデーションであり、雑音である私が、イメージの前で、コンマ数秒ほどの遅延とともに、立ち止まる。立ち止まる私は揺らぐ。私の顔面温度は、私の眼球と眼窩と眼鏡と瞼とその他の区別をつけない。天からストローのような柱がおりてきて、ミシン針のように頭頂部へと着陸する。潜り込んでくる柱は、私自身が...

『ココア共和国2022年9月号』佳作掲載と感想

拙作「ここからここまでが」が、詩誌『ココア共和国2022年9月号』投稿詩佳作集Ⅰに掲載されました。佳作集は電子版のみの掲載です。 ココア共和国|あきは詩書工房|月刊「ココア共和国」9月号 「とにかくみんなで詩を楽しもうよ」ということが目的のB6版の月刊詩誌、9月号が発売です。電子版は368ページになり、より多 www.youyour.me 平明な言葉に、日々ふと感じるような不条理感を込めてみました。 よろしければご観賞ください。 ここからは、佳作集投稿詩の作品についての感想です。 同年生の方々の詩を対象としてみました。 沢井港一「映画的未来世紀をアップデートする」 フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(あるいは映画なら『ブレードランナー』?)を意識して書かれた詩のようです。 ハッピーエンドもバッドエンドも、それらが対立項であるかぎりはおよそ等価のように思えますが(いずれにしろ「エンド」であるならば)、詩人の「アップデート」の方向性がハッピーエンドやバッドエンドをも乗り越えていくことを、未来的に期待してみたいところです。 現代詩ジェントルマン「世間」 「僕は雄叫びをあげながら コンテクストの裏側に回り込む」というフレーズが面白いです。結局の所、詩でもなんでも、望むと望まざるとに関わらず、何らかの文脈によって判断されるのが世の常です。つまり、「書いていないこと」によって「書かれたもの」が位置づけられるわけです。世の作家の方々は、それを意識しつつ世に作品を産み落としているのでしょうが、やはりどこか不条理感は否めません。詩中に<>や()でくくられた言葉も、それらをコンテクストから隔離すべく配置されているのかも知れないですね。 酉果らどん「ぼくの両親はテレビジョン」 「街を歩く人間たちは 徐々にニセモノにすり替わり 知らないうちにロボットに」という箇所で、諸星大二郎の『夢みる機械』を思い出しました。それはさておき、同号の傑作集でも笠原メイ氏の「テレビジョン」という詩がありまして、まぁ何だか身近な大人たちはテレビに対してアレコレ取り留めもない文句を楽しそうに言い続けるものだなぁ、直接的に社会の課題をどうにかしようという気もなさそうなのになぁ、と常々感じていた私は、「両親はテレビジョン」(酉果らどん氏)や「父親はテレビが宗教だった」(笠原メイ氏)などの...