『ココア共和国2022年10月号』佳作掲載と感想
拙作「正しくはカメムシ目・ヨコバイ亜目・セミ上科の胸部」が、詩誌『ココア共和国2022年10月号』●投稿詩佳作集Ⅰに掲載されました。佳作集は電子版のみの掲載です。
近所を散歩している時に思いついた詩です。
よろしければご観賞ください。
今月も、佳作集投稿詩の作品についての感想です。
同都道府県在住の方々の詩を対象としてみました。
藤田健吾「水になりたかった朝」
不定形であることが定形のイメージである水のように、世界のイメージを捉えた詩ですね。水を通してものを見たら、光の屈折や水そのものの揺らぎによってものが歪んで見えるように、むしろ水そのものとして世界の歪んだイメージに没入していく感覚でしょうか。「方丈記」に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という文がありますが、流れていった水たちは、この詩のように「何であるか」も変わっていってしまっているのかも。あるいはその変化は、詩の中でしか追いかけられないのではないか、という気もしてきます。余談ですが、詩中に「半永久的にむきだした安息角」というフレーズがありまして、「安息角」という言葉を調べてみたらば「(たとえば斜面の土砂などが)滑り出さない限界の角度」のことらしいです。こういう知らない言葉や言葉の使い方に出会えるのも詩の醍醐味のひとつですね。
sion「不可逆の環」
J・S・ミルは「自分は今幸福かと自分の胸に問うて見れば、とたんに幸福ではなくなってしまう。」と言いましたが、この詩でも幸福の形こそが個人を疎外している感覚を覚えることができます。「烙印」という言葉が出てきたのでスティグマ論を思い出しましたが、まさに烙印という傷は不可逆的かつ不可分的に存在に刻まれる傷です。罪人や奴隷であるという「しるし」は、それが焼き入れられたあとも、他者からのまなざしによって継続する痛みの在処なのでしょう。個人的に思ったのが、幸福のイメージに対して幸福の壊れたイメージを持ち出しても、それは幸福のイメージを壊したことにはならない、ということです。「壊れたイメージ」というイメージの形を再生産しているに過ぎないというか。幸福のイメージを壊すイメージによって、逆説的に幸福のイメージの形を強化してしまっているというか。「幸福」に対して人を挫折させる程度の意味しか「幸福」にはないのかも知れないので、それを知ろうが知るまいが、幸福にも不幸にもなれはしないのかも。
遠藤健人「回送」
詩中で触れられる「クシコス・ポスト」を聴きながら読んでみると、まったく印象が異なります(当たり前といえば当たり前…)。誰も乗せちゃいない、誰に手紙を届けるわけでもない回送電車が、忙しなく走っているのだとしたら、なんだか愉快な気持ちですね。走っている側からすれば必死なのでしょうけれども。「詩を書けば出られる部屋」というフレーズが面白いです。果たして部屋から出られたのか、それともまだ部屋の中なのでしょうか。出たいのか出たくないのか、それも決めかねてぐるぐる回っているのか。
10月とは思えぬ暑い日が残っていますが、ご自愛ください。
また会う日まで。
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