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何かが引っかかるままに徒然

何が教育なのかは良くはわからないけれど、 少なくとも、会社で教育されたという実感はわかない。 勝手に学べ、勝手に育て、という環境であるように思う。 要するに主体的に教え育てる者はいないということだ。 それなのに主体的に何かに取り組む人材であることが求められる。 そういうものだということは理解している。 いないのだから、欲しがる。それは道理、いや、安易に想像できる流れだ。 だが、手にしたいものを手に入れるための手が欠けているのだから、 手に入れることは無理筋だ。それこそが道理だ。 先輩諸氏が何もしていないというわけではない。 だけれども、新入りの自分にとっては何もしていないに等しい。 既知の情報を披瀝するだけでは、けしてそれを教育と呼ぶことはできない。 「自分の積み上げてきたものを、(自分が積み上げてきたのだから)  引き継いでくれるに違いない(また、そうしなければおかしい)。」 という、まぁ身勝手で浅はかな行為をしているだけのようにすら見える。 人を教育するというのは難しい。 やろうとすら思わずにできるほど簡単なことではない。 思い通りに他人を動かすことが困難なように、思い通りの仕事を保つことは難しい。 その人自身ができることについては、できるだろう。その人自身がやれる程度には。 だが、他人にやらせようとしてできるものばかりではない。 人は人によって違うのだから、自身と同じようにできるようになるとは限らないし、おそらくそんなことはありえない。 後任のものが行き当たりばったりで学ばねばならないとしたら、前任者がやっていたことは仕事を保つことと、自分にとって仕事を最適化し続けてきたことでしかなく、実質的な仕事の発展には何ら寄与していないことになる。 人間は個人として46時中、永遠に同様に働き続けることはできないのだから、 同じ仕事を自分以外の誰かが行うことも想定しなければならない。 唯自分が働きやすいために仕事を作り上げてしまえば、他人にとってはゴミとなる。あなたが必死に作り上げてきたのは、自分だけが安んじることのできるゴミの山にすぎない、ということにもなりうる。 その問題に目を背けたまま、不出来の責をやれないものに負わせようとはしていないか。 あるいはその人自身が、かつてそのように扱われてきたのだろうか。 仮にそうだとしても、その悪行を無批判に引き継ぐことがその人にと...

ないことについて

テーマがない。 やりたいことがない。 いきたいところがない。 ほしいものがない。 興味がない。 あるものはあるのだけれど、あるべきものを考えることができない。 あるべきものがないというよりも、なにがあるべきなのかがわからない。 もしくは決めることができない。 なぜ決めることができないのか。 決断力がないから? 決める気がないから? そのどちらも正しいような気がする。 ただ決めることが、多かれ少なかれ苦痛を伴う。 他人から見てどう映るかはともかくとして。 決めるということは、一方を選び他方を捨てることだ。 捨てたものを再び拾うのは、そうできることではない。 いや、捨てたものを再び拾おうと試したことすらないのだけれど。 あるいは捨てたものは拾うべきではない、拾おうとすべきですらないという、 自分でも理解し難い「決め」のようなものが自分の中にもある所為だろうか。 兎も角、決断することは選び取り、捨て去ることだから、痛みを伴うのだ。 これから痛いということがわかっていることについて、 人は及び腰になってしまうものだ。 いや、自分だけのことかもしれないけれど。でも他人もそうなんじゃないか。 知りようもないが、決断に伴う痛みの記憶ばかり蓄積するから、 歳を取るにつれて、特に新しいこと・知る由もないことについて、 何かを決めることが疎ましくなってくるのだろうか。 既知のものについては、慣れているから、経験上、 たとえ痛くとも、バカでも身の躱しようを理解しているものだ。 だけど、新しいものに伴う危険は、経験や慣れによって回避することができない。 ひょっとすると致命的なダメージを喰うかもしれない。 再起不能になるかもしれない。それだけは避けたい。 だから人は、見知らぬ天使よりもよく知る悪魔を選ぶのだ。 飽き足りず、満ち足りぬまま、腐り果てる。 退屈しているが、面倒くさい。 何かが始まってほしいのだが、何も始めたくないのだ。 さて、どうすればいいのだろう。

正規の夢

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いついつまでも どこどこまでも 始まらない夢 続かない夢 目を閉じる前に 落ちていくはずだった 意識だけが目覚め 躰が道草を吐き出している わたしに見られる夢は可哀想だ わたしに忘れられた夢は幸いだ 水玉の提督は 愚鈍な将軍に跪き 爪先から踵の隅々まで 残さず舐めて呑み込んだ 王妃の破談を喜ぶ従者は 紙の大便者であった 目腐れな民草を 今か今かと待ち望んでいる わたしに見られる夢は可哀想だ わたしに忘れられた夢は幸いだ 積み重なった小波の空き箱 ひしゃげた河童の内包装 痛し痒し こころからだ 房戸をすり抜けてくる悪い風 わたしに見られる夢は可哀想だ わたしに忘れられた夢は幸いだ 例外なく見送られた海馬の処理 臭素に染められた気圧配置 寝違えた首に礼を尽くした北枕 そんな傾向に沿って 撫で下ろすうねり わたしに見られる夢は可哀想だ わたしに忘れられた夢は幸いだ ©依田稽一、Keiichi Yoda

Brain washing(直訳)

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脳みそを丸洗いしたいと上腕二頭筋腱は思った。 上腕三頭筋長頭が脳みそによって酷使されていたからである。 だが反旗を翻すまもなく上腕二頭筋腱は断裂させられた。 上腕二頭筋短頭が告げ口をしたのだ。 背後には腹斜筋の影があったと言われている。 しかし口にするまでもなく、すべては海綿体の陰謀の裏筋でしかないのであるが。

眠いというのは眠いということだ

たとえば疲れていたとして、疲れていなければ疲れたことにはならない。 疲れようとも疲れなければ疲れないのだから、疲れてはいけない。 疲れたのは疲れをとらないからで、疲れを取るのであれば疲れを取ろう。 3分後に休もう。 3分おきに3分休んで3分分の疲れを取ろう。 3分後に休もう。 3分おきに3分休んで3分分の疲れを取ろう。 3分後に休もう。 3分おきに3分休んで3分分の疲れを取ろう。

虚空宏大もない厭かずの間

数字をこねくり回して、ああでもないこうでもないと唸るような日々。 なんのために数値を出すのか。 定量的な尺度で評価したいからだ。 なぜ定量的でなくてはならないか。 より客観的であると思われるからだ。 定性的に、「よく頑張っている」とAさんとBさんが自己評価したとき、 その内実に、天と地ほどの開きがある場合がある。 あるいは性質が全く異なるということがままある。 定量的にAさんとBさんが「10」の結果を出したと評価できるのなら、 数値の出し方が恣意的に過ぎなければ、「ほぼ同じ」と評価ができる。 また、数値の出し方を継続しているのであれば、 経時的な変化を客観的に把握しやすい。 「10」を「15」にしたのなら、結果が良くなったと言えるだろう。 「前よりもよく頑張った」だけでは、どれくらい頑張ったのかはわからない。 仮に、「10」を「15」にしたAさんと、「10」を「100」にしたBさんとを評価するとき、どちらも「前よりもよく頑張った」のだとしても、同等に評価するのはむしろ不当である。 客観的な評価、あるいは、より公平性・中立性が担保されうる評価には、 数値が必要不可欠だ。 もちろん、頑張ってはほしいのだ。 だが、無駄な頑張りはしてほしくないのだ。 正当な手続きで、数値にポジティブな影響の出るプロセスを確立したいのだ。 可能な限りで、よりよく頑張るために、数値的にも見てみるのだ。 そして、どのように数値を出すかが、ある意味最も難しい。 定性と定量の相互補完ができるような設計を考えなければならない。 取ろうとしない数値は取れない。 目的に照らして、把握したい現実を反映していない、いびつな数値が取れてしまうことがある。 不確定要素のコントロールに失敗し、対して意味のないデータのまとまりができあがる。 数値が在るのではなく、数値化していることを、念頭に置くこと。 数値を出すのは手段であって目的ではない。 数値による現状の把握、問題の分析、評価による方向づけこそが目的である。 その目的を忘れずにおくこと。 その目的に基づいて判断・評価すること。 その位置づけと関係性を、周囲と適切に共有すること。 実に、むづかしいことである。

心なき形は骸、形なき心は無用

心なき形は骸、形なき心は無用。 心なき形は骸である。 すなわち形骸である。 実質的な意味を失ったもの。 形式だけが残ったもの。 初心を忘れ、ただ動き続けるだけのもの。 形なき心は無用である。 いわば不要である。 誰の目にも触れず、用をなさないもの。 生じるままに消え失せてしまうもの。 いずれにせよ、後先のないもの。 形だけでは不足。 心だけでは不満。 片手落ち、片足立ち。 形を保つのは心であり、心を保つのは形である。 この意味で、形は心であり、心は形である。 心無ければ形無し、心無ければ形無し。 無形無心、無尽無用。