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スカラベ水晶と灯台ペリカン

私は言葉を生かしたいとは思わない。生き生きとした言葉を産みたいとも、言葉によって活き活きとしたいとも考えたことはなかった。むしろ私のやりたいことは、言葉を殺してしまうことだ。なすべきことと言い換えてもいいが。言葉を浮かび上がらせるのではなく、沈めてしまうこと。文脈を受け継ぐことではなく、断ち切ってしまうこと。豊潤なる意味の源泉を、汲み尽くして枯渇させてしまうことだ。或いは似たような試みは何度も何度も何処かの誰かによって既に行われているかもしれない。それについては否定はしない。だがそのことが、私の試みに対しての否定ともなりはすまい。あるいは私の試みの価値や希少性もとい新規性を損なうにしても、それは私にとってではなく、私の試みと過去の誰かの試みを較べてみる誰かにとってのことなのだから、やはり私にとってはどうでもいいことだ。むしろ過去の誰かの試みは、未来においてほかならぬ私によって行われるのだから、その限りある過去の時間を費やして行うべきではなかったということになりはすまいか、と反対に言ってみてやることも出来るだろう。未来を見通すことはできないのだし、単なる過去の不勉強の正当化だという指摘もあろうが、過去の試みは完了ないし中止されたことが確定したことである以上、私の試みが単なる過去の焼き直しのままで完了ないし中止するかどうかは未確定であり、その未来を見通すことは当然誰にもできないのだし、過去の試みにおける誰かが不勉強でなかったなどということは証せない以上、これらの指摘もそれに対する応答も結局のところ誰も行うべきではない、どうでもいいことのような気がしてくるだろう。繋がりを見出すことは、繋がりを見出すものに任せれば良い。位置づけは、位置づけたいものにやらせれば良い。私は他との関連や比較によって屹立したいのではなく、ただ自らの手で私のものを立ててみたいのだ。生まれる前のことも、死んだ後のことも、生きている間のことでさえ、厳密にいえば、私の知る由もないことばかりだ。後で面倒にならないように断っておくのだが、別に私は過去や未来や現在や他人のすべてがどうでもいいと言っているわけではない。むしろひどく重要なものであると捉え、同時に基本的にどうしようもないと思っているだけだ。だから変えたいとも変わってほしいとも、良くしたいとも発展させたいとも成長させたいとも、ましてや害したいとも腐らせ...

『マルドロールの歌』の要約と考察

【マルドロールの歌とは】 フランスの詩人、ロートレアモン伯爵作の散文詩集(1869年作)。 悪の化身「マルドロール」を歌い手(語り手)とした悪逆的・奇想的な文体が特徴。 「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」というフレーズなど、後の20世紀シュルレアリストたちに影響を与えた。 【ロートレアモン伯爵とは】 本名イシドール・リュシアン・デュカス。「ロートレアモン伯爵」は筆名で、デュカスに爵位はない。 1846年、南米ウルグアイの首都モンテビデオで生まれる。 1870年、モンマルトル通りの住居で死去(享年24歳)。 他の作品に『ポエジーⅠ』、『ポエジーⅡ』。生前はほぼ無名だった。 【マルドロールの歌の構成】 マルドロールの歌は第一歌から第六歌までの六つの歌からなる。 それぞれの歌は五から十数の章節で分けられ、全体で六十の章節により構成される。 以下では各章節ごとの主題(らしきもの、テーマと思しきもの)を取り上げて、簡易的なインデックスとして要約している。※ロートレアモンは章節に題名などは付していない。 第一歌  第一章節  読者への警告、渡り鳥の鶴について  第二章節   読者の憎悪について  第三章節   マルドロールの善良な幼年時代について  第四章節   自分の天才について  第五章節   笑いについて  第六章節   自らが危害を加えた無垢な子供を、優しく慰める幸福について  第七章節   ツチボタルと淫売について  第八章節   田園の犬の遠吠えについて  第九章節   年ふる大洋について  第十章節  地上の動物たちと人間の奇妙な喧騒について  第十一章節  ある父と母と子の家族について  第十二章節  ノルウェーの墓掘り人夫について  第十三章節  ヒキガエル君について  第十四章節  第一歌の結び 第二歌  第一章節  人類と邪悪さについて   第二章節   血だらけになりながら第二歌を書き始める  第三章節    ローエングリンについて   第四章節    不定形の塊から逃げる乗合馬車について  第五章節   狭い路地の少女について  第六章節   チュイルリー公園のベンチに座っている子供について  第七章節   両性具有者について  第八章節   聴覚、音、声、叫びについて  第九章節   虱について  第十章節   数学、三角形につい...

駅で男は目覚めた〜

駅で男は目覚めた。男の青白い陰茎が、男の目覚めと同時に目覚めていた。男と男の青白い陰茎は同胞であり、双子の兄弟でもあった。双子ではあるが、男と男の青白い陰茎は、似ているところが一つとしてなかった。そして同時に、似ていないところも一つとしてなかった。それは男と男の青白い陰茎の類似ないし差異を認める第三者がいつも欠けていたことによる。男を知る誰かはいたが、その誰かが男の青白い陰茎を知ることはなかった。男の青白い陰茎を知る誰かはいたが、その誰かが男を知ることはなかった。しかし、男を真に理解するためには男の青白い陰茎について知らねばならなかったし、男の青白い陰茎について深く理解するためには男についても知らねばならなかったので、男も男の青白い陰茎も、誰かに理解されている気はしていなかった。男が誰かの前に立つときは、男の目には男を男のようなものとして見る目しか映らなかったし、男の青白い陰茎が誰かの前で立つときにも、男の青白い陰茎の先には、本来男の青白い陰茎が納まるべきでない始発点が終着しているだけで、陰茎を陰茎のようなものとして受け入れる穴にしか入らなかった。男は丁重に扱われるにせよぞんざいに扱われるにせよ、男として扱われるのではなく、なにか別の男に準じて扱われていることを感じていた。その別の男には、男は一度も相見えたことはない。男は男の青白い陰茎を知り、青白い陰茎も男を知っているが、その別の男を知ることはなかった。別の男が男を知っているのか、男の青白い陰茎を知っているのか、両者を知っているのか、知るべきなのか知らざるべきなのかを、男は知らない。だがこれまで男を知っていた誰かは、その別の男を常に知っていただろうことを、男は知っていた。なぜなら男や男の青白い陰茎を知る誰かは、その兄弟の片割れを知るときに、やはりその兄弟とは別の男を知っているように知ることしかしていなかったからである。男は自らの影に、いやむしろ正確には、自らを影として常に誰かの脳裏に存在している別の男の存在を否応なく感じさせられていた。男が別の男の存在を感じさせられているとき、きまって男の青白い陰茎は、空腹を覚えていた。男の青白い陰茎にとって、自らが何かに準じて扱われていたとして、そう、例えば柱であったり棒であったりプラスチック製の玩具であったり机の角であったり指であったり舌であったり肉であったり体温であったり遺伝...

君の子どもはそこにはいない

君の子どもはそこにはいない 君の子どもではない子供が アスファルトに描きなぐる チョークの線の絵のように 君の子どもの幻のすがたは 遅かれ早かれ掠れて消える 君の子どもはそこにはいない 君はその絵が風化する前に 君の子どもの幻の前に立ち 君の足でその絵を踏みつけ 地面に靴底をこすりつけて  絵を消し去ることができる 君の子どもはそこにはいない 君の知らないはやりの歌の フレーズ浴びせ合う子供の 行き交う道路端に立つ御坊 死人と大人を見捨てて遊ぶ 良い寛ぎのひとときも失せ 君の子どもはそこにはいない

短歌まとめ(2022年7月、25首)注釈付き

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#今日の短歌でつぶやいた短歌のまとめと解説コメント。 「新仏(あらぼとけ・しんぼとけ・にいぼとけ)」は、死んで葬られて間もない人。生きてはいるが生き生きと詩を吟じることのできない歌人の微かな枯れ声と、何も語らない死した人の対比を意識した。死人に口なしとは言うが、死人の耳なしとは言わない(「耳なし芳一」は、死霊と交感してしまう琵琶法師の怪談であるが)。ひょっとすると、死人はどこかで生きている人の声や歌を聞いているのかもしれない。死人の耳に響くような言葉を届けてみたい、生きた人にすら届かないことも往々にしてあるからこそ。 「夢違え」は、悪い夢を見たとき、正夢とならないようにまじないをすること。汗をかくほどの悪夢を(あるいは汗をかいたから見た悪夢を)、解消するために意識朦朧としながらも夢違えをし、寝返りをうちながら、夢と現(うつつ)を往復しているさまを詠んだ。悪夢と現実の断ち切り難いあわい・境界を感じて身悶えをしている。 足音と簡単にいうが、それは足の音なのか、足が踏みつけた地の音なのか。禅問答の有名な「隻手音声」(そうしゅのおんじょう)を思い起こさせる。両手で拍手をすれば音が鳴る、では片手(隻手)ではどのような音が鳴るか? 足音とは言いつつも、それは「足の音」ではないのではないか。足裏と地とが合わされたときに生じる音。力強く踏みつけるのか、静かに忍ばせるのかは想像に委ねるところだが、それとは別の、足だけの足の音を聞いてみたいものだ。 大きなあくびと、(口の中を)出入りする小さな虫との対比。また、あくびの呑気さと、羽根をまわして根回しに奔走(奔飛?)する虫の忙しなさとの対比。一寸の虫にも五分の魂というが、ひとつの命にとって、死ぬことも生きることも、小さいようで大事である。大事ではあるが、ひとつの小さなことでもある。虫歯のような小さな傷も、大いに人を苦しめるだろう。 ニーチェの『ツァラトゥストラ』に、「誰がみんなに必要とされているのか知らないの? 大きなことを命令する人よ。」という一文がある。実際そうかも知れない。自分で考えて、自分に何かを命じるのは面倒なものだ。誰かに命令してほしい、しかも、なにか意味のある、価値のある大きなことを命令してほしい。あとでどうなっても、「命令されたのだから」という言い訳で自分を許すことができてしまう。矮小なようで尊大な、命令されるものの命令を...