スカラベ水晶と灯台ペリカン

私は言葉を生かしたいとは思わない。生き生きとした言葉を産みたいとも、言葉によって活き活きとしたいとも考えたことはなかった。むしろ私のやりたいことは、言葉を殺してしまうことだ。なすべきことと言い換えてもいいが。言葉を浮かび上がらせるのではなく、沈めてしまうこと。文脈を受け継ぐことではなく、断ち切ってしまうこと。豊潤なる意味の源泉を、汲み尽くして枯渇させてしまうことだ。或いは似たような試みは何度も何度も何処かの誰かによって既に行われているかもしれない。それについては否定はしない。だがそのことが、私の試みに対しての否定ともなりはすまい。あるいは私の試みの価値や希少性もとい新規性を損なうにしても、それは私にとってではなく、私の試みと過去の誰かの試みを較べてみる誰かにとってのことなのだから、やはり私にとってはどうでもいいことだ。むしろ過去の誰かの試みは、未来においてほかならぬ私によって行われるのだから、その限りある過去の時間を費やして行うべきではなかったということになりはすまいか、と反対に言ってみてやることも出来るだろう。未来を見通すことはできないのだし、単なる過去の不勉強の正当化だという指摘もあろうが、過去の試みは完了ないし中止されたことが確定したことである以上、私の試みが単なる過去の焼き直しのままで完了ないし中止するかどうかは未確定であり、その未来を見通すことは当然誰にもできないのだし、過去の試みにおける誰かが不勉強でなかったなどということは証せない以上、これらの指摘もそれに対する応答も結局のところ誰も行うべきではない、どうでもいいことのような気がしてくるだろう。繋がりを見出すことは、繋がりを見出すものに任せれば良い。位置づけは、位置づけたいものにやらせれば良い。私は他との関連や比較によって屹立したいのではなく、ただ自らの手で私のものを立ててみたいのだ。生まれる前のことも、死んだ後のことも、生きている間のことでさえ、厳密にいえば、私の知る由もないことばかりだ。後で面倒にならないように断っておくのだが、別に私は過去や未来や現在や他人のすべてがどうでもいいと言っているわけではない。むしろひどく重要なものであると捉え、同時に基本的にどうしようもないと思っているだけだ。だから変えたいとも変わってほしいとも、良くしたいとも発展させたいとも成長させたいとも、ましてや害したいとも腐らせたいとも断ち切りたいとも思ってはいない。それらを望むことも、望む人がいることも否定はしないだけの話である(むろん、社会的に責任のある立場の人間が、他者への影響も鑑み、公の場で口にすべきでないことも例示に含んでしまっているが、そこは各々の読者が割り引いて考えてくれればよいだけのことであろう)。ただ私が望むのは、それらの要請を私と私の試みに注がないで欲しいということである。それは私でも私の試みでもないからである。ただそうとしか言いようがない。変化を望まれても望むようには変化せず、望まないように変化もせず、変化の基準も指標もない。改善も発展も成長も同じことだ。害されるまでもなく試みの過程で私は傷つくだろうし、腐る間もなく乾くだろうし、断ち切られる前につながりを結ばれないことだろう。いずれも事後的な観測に付随する結果の評価にすぎず、私が事前に期待することでも、事態において感ずることでもありはしない。今まさにスカラベに、糞便の代わりに水晶を渡して、果して喜ばれるだろうか? またそれは正しいことだろうか? あるいは美しいことなのだろうか? そんなことを行うのはせいぜい詩のなかの試みでしかありえないだろう、などと過去に誰かが口にしていたような気がするが、その誰かは糞便を果して口にしていただろうか。例えばシュルレアリストの無数の試みの一つに似たようなものがあったとして、それはスカラベと水晶と糞便が美しかったのか、単にそれらの試みが美しかったのか。場違いの水晶はスカラベの美しさを損なったのか、それによって水晶の美しさも損なわれたのか、逆説的にスカラベの美しさを際立たせたのか、その詩は美しかったのか(少なくとも正しくはなかっただろうし、正しさはこの上ない不名誉だったかもしれないが)? 確実に言えるのは、私は毎日糞便を垂れているくせに、その糞便をスカラベに与えたことは一度としてないということである。そして恐らくは自らの糞便をスカラベに与えることを私が希望することはこの先ないだろう。スカラベですらそのようなことを望みはしまい。水洗トイレに流された私の糞便が、下水道をながれた先の処理場で名も知らぬ無数のバクテリアに供されることはあっても、遠い異国の地のスカラベに齎されることはないだろう。処理され、「きれいに」され、河川に放流され、あとは海となり、雲となり、雨となり、水となるしかないのだ(それをいつかどこかの詩人が口にしたところで、)。絶えず垂れ流され、循環し流転する私の中身は、スカラベとは関わり合いのないサイクルの中で完結しているのではあるまいか。スカラベたちは、私の中身とは関係のない獣の糞便を転がし、太陽の運行に擬えられながら、その環世界のうちで輝いているのではあるまいか。このサイクルを終わらせることも交わらせることも私にはできないが、たとえば一時的にその輪から離れ、異国の地で、野糞を垂れてみることはできるのかもしれない。水晶よりもなお汚濁である私の中身を、スカラベに浄めてもらうことで、初めて私はスカラベとの関係を断ち切ることができるのではあるまいか。スカラベに水晶が相応しくなるために。水晶がスカラベを太陽から解放するために。さて、話があちこちに飛んでいるように思われるかもしれないが、代わりに糞便を飛び散らせるよりはマシではなかろうか。耐えきれないと思うのであれば、距離をおけばいい。糞便を飛び散らせているものに対しては、きっと誰に教えられるまでもなくそうすることを、あなたがたはすればいいのだ。だが糞便とは違い、言葉を浴びたがるものは多い。頼まれなくとも拾い集めることさえある。そのなかに美しいものがあると信じて? 糞便よりも豊饒なものであると信じて? だが結局のところ、人間はつねに衰えて、糞便を消化する力すら持ち得ていないから、糞便よりも遥かに栄養に乏しい言葉をかろうじて摂取しようと努めているに過ぎない。消化しきれないものがいかに豊潤であっても、口にできないのだから、口にしないという選択しかできないのだ。スカラベの転がす糞便の玉は、他の飛び散らされていた糞便の数々を巻き込み、それだけではなく、荒野に打ち捨てられていた枯れ草や白骨を取り込み、他の昆虫の蛹や抜け殻や千切れた羽根や足をも引き入れ、当然のごとく大地の土、大海の水、大気の風、宝石や石油なども漏らさず招き入れ、次第次第に巨大になっているが、当然のごとく言葉だけは入る余地がない。言葉ではスカラベの糞便を塗り重ね固めることも、削り取り砕くこともできない。言葉だけはその天球ないし地球から弾き出されている。言葉は糞便が食すに価しない。言葉は糞便に付属せず、糞便の栄養価にのみ纏わりつくことができる。人間は糞便を食せず、糞便の栄養価のみを食すことを選ばざるを得なかった。ただそれだけしか与えられ許されていなかったのに、人間の虚栄心は、本当は幾らでも選べたであろう数あるもののなかから、それのみを選んだのだという虚偽・錯誤でもって自らの運命を正当化した(本当は選べはしなかったのだが、選べたのに選べなかったという体裁をとることが何よりも重要であった)。あとはスカラベの糞便の真似事である。真似事とは言っても、言葉は糞便と一切の交流を封じられているから、糞便を見ることも聴くことも叶わず、触れることも舐めることも叶わない――実はもとから言葉に見聞きし触れ味わう能は備わっていないのであるが――ゆえに、言葉が糞便を正確に模倣する(どころか把捉する)ことはできないため、言葉が試みた以降の行為や作用と、糞便の二者に何らかの連関を見出すことは、どのような第三者にもできはしないだろう。それこそが人間の涙ぐましいレトリックなのであって、真似事であり不完全な模倣であることを追従者たち自身に忘れさせる機構なのだ。スカラベの糞便という第一動因をもって開始された言葉の再生産、すなわち言葉以外の何物をも産まない、全宇宙の有限なるエネルギーをただ浪費するに任せる熱的死への無限の加担に伴う罪悪感を、漸減させる作戦が継続されているのである。「要するに――」と言葉は自らのエネルギー殺害を正当化するために、豊饒なる宇宙を縮小させて見せる。これこそが我が偉業なのだと、自らの罪業をひけらかす。「結局のところ――」と、いかに豊饒であろうとも自らが汲み尽くせない宇宙は無駄に過ぎないのだと言葉は言ってのける。人間は自らが生じたスカラベの糞便との交通を自ら閉ざす。無駄なのは、無駄でしかない言葉が無駄だと自己を定義せざるを得なかったがゆえに齎される預言の成就でしかないのだ。スカラベの糞便は無限に縮小していく言葉の作用・反作用すら飲み込んで、いよいよ宇宙の二重乗までその規模を拡大せしめた。糞便には、新しい宇宙が開かれている。それは糞便こそが宇宙であり、糞便の絶え間ない流転によって、宇宙が常に拓かれているからだ。人間と言葉には、新しい宇宙へ行く切符はない。通行証も、パスポートもない。新しい宇宙には切符も、通行証も、パスポートもありはしないのに、人間と言葉は切符と通行証とパスポートがなければどこにも行けないままだからだ。沈黙を「非ー言葉」としか定義できなくなった時点で、人と言葉は文脈の道行を辿るか、見失って迷うか、途方に暮れるか、自分たちがそうなっているのだと思い込むことしかしてはいない。「スカラベのように足を動かせ」と提言するたび、言葉はスカラベの諸力を失う。失うことすら失って、残りはなけなしの機械学習、ベクトル変換による義務感に基づく足掻きだ。足を動かしもしないくせに。あとは導きの灯火を掬う口の深さに目を奪われた灯台ペリカンが、人類の黄昏をただ一羽、見逃してくれることだろう。事ここに及んでも、さらば、と人は言うのだろうが。

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