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駅で男は目覚めた?

 駅で男は目覚めた。目覚めると同時に男は絶望した。なぜ自分は目覚めてしまったのか、と男は嘆いた。男は目覚めるべきではなかった。なぜかと言えば、男は目覚めるべきではなかったからである。目覚めるに足る理由もなく、目覚めていいことなど何ひとつもありはしなかったからである。男が目覚めることで喜ぶ人間は男を含めて一人もおらず、男が目覚めることで何らかの価値が生まれることを期待するものは一人としていなかった。男の目覚めに対して祝福は与えられず、ただ弔意の不在のみが嘆かれていた。なぜ自分はいま目覚めてしまったのか、と男は苦しんだ。今目覚めるよりも、もう少し前に目覚めることができれば、あるいはもうすこし後に目覚めることができれば、男にとってより望ましい結果が得られていたはずであった。なぜなら、仮に今目覚める前に目覚めることができていたとしたならば、男は今目覚めることに対して事前に何らかの措置を講じられていただろうし、仮にもう少し後に目覚めることができていたとしたならば、すでに何もかもが終わってしまっているのだし、多少の無力感や罪悪感は覚えるにせよ、自分を納得させるに足る正当性を携えて、事後処理に専心することが出来ていただろうからである。しかし、今目覚めてしまった以上、男には何の準備も、事後的に反省する正当性も与えられはしなかった。男は今目覚めて苦しまねばならなかった。なぜ自分はここで目覚めてしまったのか、と男は歯ぎしりした。せめてここではないどこかで目覚めていることができていれば、より自然に男の目覚めは受け入れられていただろうからである。たとえばベッドの上であればよかった。ベッドの上で目覚める多くの人は男の目覚めを受け入れてくれただろう。たとえば天国か地獄かであればよかった。語るのも億劫な、目覚めてしまう前のあらゆる経緯について、多くの人が適当な背景をでっち上げてくれただろう。たとえば移動する電車の客席の中であればよかった。いつの間にか、電車に揺られているうちに、移動の退屈さから、多くいる乗客のうちの一人として、受動のうちに眠り込み、その延長で目覚めていることが証されたであろう。しかし男はここで目覚めた。駅で。どこかに行かねばならないと男は歯ぎしりした。あるいはどこかに着かなければならないと、男は下唇を噛んだ。いっそのこと、自分以外の誰かが目覚めるべきだった、と男は思った。...

駅で男は目覚めた、

 駅で男は目覚めた。声が聞こえたような気がした。しかし自分を呼ぶ声ではなかった。別の男が誰かと話していた。誰と話しているのかはわからない。電話をかけているようだ。電話先の相手の声は聞こえないが、相手に向かって話す男の声はよく聞こえた。自分にかけられた声はよく聞き逃す男であったが、自分にかけられているわけではない声には、人一倍耳をそばだてることが常であった。目覚めた男は、目覚めたままに聴くことを始めていた。「よく聞こえない、よく聞こえないよ、駅だからね、いや今は電車には乗っていない、降りているよ、あー、よく聞こえないな、これから乗るところさ、まぁいいんだけどね、もう少し静かなところに行きたいな、え?なに?なんだって?、いや違うよ、行くんじゃない、帰るんだよ、だってもうこんな時間じゃないか、いつまでも帰らないわけにいかないだろう、それとも帰らないほうが、いや、よく聞こえないからね、大きくせざるを得ないんだ、声をね、静かな場所でもないかとは思うんだけど、あー、もしもし、もしもし、うーん、電波も悪いみたいだ、え?地下?いや、今は地下じゃない、屋根もないぞ、うん、おれに言っても仕方ないけどね、はい、はい、あー、ちょっとまって、別の電話がかかってきた、うん、ちょっとまって、急ぎかもしれないから、うん、仕事、仕事用、うん、また静かなところに行ったらつなぐから、うん、それじゃ、はい、はーい。「はい、もしもし、はい、はい、はい、あー、そうですか、はい、了解です、では、そのような形で、はい、引き続きよろしくおねがいします、どうも、はい、あ、少々お待ち下さい、念の為こちらでももう一度確認させていただきますので、はい、申し訳ございませんが、はい、一度、はい、後ほど、はい、はい、はい、失礼いたします、では。「おう、どうした、おう、おう、おーう? おう、おう、うーん、でもそれは、仕方がないんじゃないか、うん、いや、個人的な、あくまで個人的なあれだけどね、そっちのほうが、うん、おれはいいと思う、うん、まぁ、最終的には、うん、任せる、うん、まぁ頑張って、うん、なるほど、うーん、まぁ、まぁ、なんとかなる、うん、あー、それじゃ、それで、うん、また後で、状況動いたら教えて、もう次のアレ、始まっちゃうから、おう、その後で、おう、じゃ。「はいもしもし、はい、はい? はい、はぁ、うーん、はい、なるほど...

駅で男は目覚めた。

駅で男は目覚めた。生まれてから何度目の目覚めなのかはわからなかったが、生まれてから何度目かの目覚めであることはわかった。これは生まれてから初めの目覚めではない。そしておそらくは生まれてから最後の目覚めとなることもないであろう。そのような予感が男の重いまぶたを押し上げようともがいていた。仮に最後の目覚めであっても、目覚めるときにそれが最後の目覚めだと意識するものはそう多くない。ただ眠るときに二度と目覚めることのない予感に支配されつつまぶたを下ろすだけだ。男は、今そうしても良かった。目覚めてすぐ、眠りについてしまうことを選ぶ余裕が男にはあった。眠りについてすぐに目覚める余裕は持ち得ないのだが、永遠の停滞と混同される目覚めと眠りの曖昧な往復のなかではそれも些細なことであった。男はまぶたを意識的に下ろす。意識的に下ろすときに、男が眠りに入ることは多くなかった。たいていは無意識的に下ろされるとき、男は眠りに入ることを許されているような気がした。男は意識的に眠ることがなかった。眠る意志も、眠る意思もなく、眠っていた。眠る覚悟もなかった。おれではない誰かの意志で、おれは眠っているのではないか。男は度々そう考えていた。男は夢の中でそんなことをよく叫んでいた。目覚めているときには、どんなに小さい声だとしてもそんなことを口に出すことはできないでいた。そんなこと。そう、そんなことでしかない。おれがおれの意志で眠ろうと眠るまいと、目覚めようと目覚めまいと。男の思考は男のまぶたほど勤勉に、また定期的に働くことはなく、いつも中途で停止し、霧散していた。なにも残るものはなかった。引き継がれるものはなかった。目覚めの中断が眠りであり、眠りの中断が目覚めだとして、前の目覚めと今の目覚めに何らの連続性もなく、前の眠りと今の眠りに何らの伝統もなかった。それはおそらく今の目覚めの次に来るであろう目覚めに対しても、今の眠りの次に来るであろう眠りに対しても、要請される事柄であった。ただその非連続性こそが、眠りと眠りの関わりであり、その伝統の棄却が、目覚めと目覚めの共通バッジではなかったか。男は一日ということを信じられずにこれまで生きてきた。これまで、当たり前のように周囲の人は一日に一度ずつの目覚めと眠りを配当していた。男はしかし、他の人の一日に幾度もの目覚めと眠りを割り当てていたし、ときには一度の目覚めと眠り...

「クラリタスは去る」

クラリタスは立ち上がり、去っていった。 およそこれまで座したことのない男であった。 およそこれまで横臥したことのない男であった。 いつから居たのかも、いつやって来たのかも誰も知らない。 なぜ去らねばならぬのかも、どこへ行くのかも、誰にも告げることはなく、 ただ去らねばならぬから、そして立ち上がらねば去ることはできぬから、 クラリタスは立ち上がり、去っていった。 はじめから見送るものの居ない男であった。 はじめから待つものの居ない男であった。 明日去るのでも良かった。  だが昨日去らなかったのだから、 今日この日に去ることが、男に残されたただ一つの解であった。 クラリタスは荒野に去る。 太陽が昇るよりはやく、月が沈むよりも遅く去らねばならなかった。 海峡を渡り、峡谷を越え、深山に入り、雲海を跨ぎ、 クラリタスは蒼穹から去らねばならない。 自らを構成する諸要素における異質なもののうち、最も異質なものに従う時が来たのだ。 クラリタスは脱落する。 自らを構成する諸要素における異質なものから切り離され、 クラリタスは自らにとって自らを異質なものとした。 それはクラリタスの言伝である。 男の足が踏み出されるとき、クラリタスは大地を踏みしめてはならない。 男の腕が振り出されるとき、クラリタスは大気を掻いてはならない。 クラリタスの去り際に、彼の残した幾つかの水滴が世を浄めた。 そして同じ程度に世を穢した。 それはクラリタスの詐称である。 水滴の一つはクラリタスの涙であった。これはクラリタスの汗と呼ばれる。 水滴の一つはクラリタスの汗であった。これはクラリタスの涎と呼ばれる。 水滴の一つはクラリタスの涎であった。これはクラリタスの尿と呼ばれる。 水滴の一つはクラリタスの尿であった。これはクラリタスの精液と呼ばれる。 水滴の一つはクラリタスの精液であった。これはクラリタスの涙と呼ばれる。 世の人の言うクラリタスの血は、クラリタスの残した水滴ではない。 クラリタスは血だけは流さず、ゆえに血だけは残さなかった。 クラリタスの血と呼ばれるものは、世を穢しも浄めもしない。 クラリタスの水滴は、クラリタスの存在の証ではない。 クラリタスの水滴は、クラリタスの去った証である。 クラリタスは立ち上がり、去っていった…。

駅で男は目覚めた 

駅で男は目覚めた。朝日の当たるベンチの上で、いつの間にか座り込んでいた。いつから腰を下ろしていたのか、いつから眠りについていたのか、男にはわからなかった。どこかへ行かねばならない。立ち上がって、背を伸ばし、頬を張って、目を輝かせ、力強く一歩を踏み出さなければならない。何かが自分にそう命じている。いや、そうあるべきだという自分の憧れが、自分を追い立てるようにその影像を自分の脳に課している。行き先さえ定まればおれは立ち上がるだろう。力強い一歩を踏み出しさえすれば、次の一歩は勝手についてくるだろう。そうおれに教えたのは誰だったか。教えられたと思い込んでいるおれがいるだけだったのか。なにもせずになにかを学んだという気がしていただけのおれが。いずれにせよ男は駅から出発しなければならなかった。いつまでも駅にとどまることはできなかった。果たしてこの駅は始発駅であるのか、終着駅であるのか、中継地であるのか目的地であるのかも定かではなかった。そしてそのどれに該当したとしても、男にとっては大して意味がなかった。男はそこから始める気も終わる気もなく、続ける覚悟も止める意志もなかった。男にとっての問題は、自分の腰掛けるベンチに肘掛けがないことだった。正確には肘掛けはあるのだが、ベンチの端に設えられているために、男の坐っている位置からは届かないのであった。それは男にとっては肘掛けがないのと同じであった。男の肘は明らかに落ち着きを失っていた。肘のやり場のなさ故に、男は腕を組み、解き、脇を締め、そして緩め、腕を伸ばし、また折りたたみ、腕を伸ばしながら脇を締めたと思えば、すぐさま腕を組んだまま肩をぐるぐると回すように蠢いた。男は肘掛けの近くに躙り寄ることはなかった。一度立ち上がって、ベンチの端に移動することはなかった。誰かに命じられれば、あるいは少しは動いただろう。だが男に命じることのできるものは誰もいなかった。男自身にすら、男に対して何かを命じることはできなかった。男はそれをよく知っていた。忘れたいほどに知り尽くしていた。何かの偶然が必要だった。男の自発ではなく、外的な何らかの偶発によって、男がそこを離れるに足る必然が生まれることが期待されていた。男は男に何らの期待もしていなかったが、ただ男にそうさせる何かに対しては限りないと言っていいほどの期待を抱いていた。その期待だけが、肘掛けを持たぬ男を支...

潰された蜂の夢

はっと目が覚めた。 枕元に君がいた。 難儀しながら身体を起こし、君に尋ねた。 「僕は死んでいたかい」 「ああ、やっと息を吹き返したね」 本を片手に君は答えた。 「もう少し時間が経てば、水でもかけてみたところだよ」 「そうなる前に帰れてよかった」 僕はゆっくり頭を振った。 「ときに君、僕は夢を見ていたようだ」 「死んでいたのに夢を見るかい?」 君のため息一つ無視して僕は続けた。 「僕は教会の前に咲き乱れる花畑の中を歩いていた。歩いていると死んだお袋と親父が佇んでいるのが見えた。近づこうとしたのだけど、僕の名前を呼ぶ声がするので後ろ髪引かれる思いで振り返った。振り返るやいなや僕の身体は蜂になり、花吹雪のなかをブンブンと飛んでいた。蜂になったというのに僕を呼ぶ声は止まない。仕方がないので花畑を抜け、教会の中庭を抜け、ステンドグラスを突き抜け、教会の裏の墓地に出た。墓地では子どもたちが卒塔婆を担いで走り回り、笑いながら転げ回っているので肝が冷えたが、僕は蜂なので気にしなかった。線香の煙をかいくぐりながら飛んでいくと、鐘楼に吊るされた銅鐸が尼に撞かれるたびに僕の名前を呼んでいた。その呼び声があまりにも必死なので、釣られて蜂の僕は鐘の中に飛び込んでいった。飛び込んでみると、この部屋の中で僕の名前を呼ぶ君の前に飛び出てきた。君の方は僕に呼びかけていたら、視界に急に蜂が飛び込んできたので、驚いて僕を叩き落とそうとしたね。僕はすんでのところで体をかわして寝転んでいる僕の身体にすっと舞い戻った。その瞬間に息を吹き返すことができたわけさ」 君はあくびを噛み殺していった。 「なるほどあの蜂は君だったのか」 「どうやらそうだ。君に殺されなくてよかったよ。」 「いや、僕は殺してしまったよ」 言うなり君は、本の表紙を裏返して僕に見せた。 潰れた蜂の骸がへばりついていた。 黄色い体液が涙のように滴り落ちているのだった。

女が生まれた。服を着た女が。

女が生まれた。服を着た女が。父は服のみを産み落とさずにいたことを嘆いた。 母は祖母によく似た糸を裁つ頃にようやく笑みを浮かべた。女は赤子ではなかった。 女は少女ではなかった。女は母ではなく、女は父でもなかった。女は老婆ではなかった。 ただ女は服を着た女であった。女の産声は産婆の耳鳴りに掻き消されて誰の耳にも届かない。 胎盤を透かして見た臀部の裏の襞の間にかいた汗の一滴を波が攫っていく。 全ては嵐の前触れなのか? 嵐こそが静けさの前触れに過ぎないのか? 父は息子ですらないのに母なる海に還ろうとしたが、ついに還ることも帰ることもなかった。 母は覚えることのなかった女の顔を忘れるように、父の遺した言葉を書き損じた。 女は故に女であった。服を着た女。ただ女であることを認識されていればそれで済む女。 名前も好きに付けて良い女。好きな顔で、好きな表情を常に浮かべることにしていい女。 好みの声をしていてよい。仕草も体つきも思う様、好きにして良い。 だが誰も女に対してそれを持続的に望む努力を果たせなかった。故に女は女であった。 女を見た。女は暮らしていた。服を着ていた。化粧をしていた。バッグを持っていた。 女を見た。女は笑わなかった。許さなかった。創らなかった。瞬きをひとつもしなかった。 扉をたたく人があった。扉を叩くことが仕事であった。 女にはそんな仕事とそんな仕事をする人があることが信じられなかった。 だから女は扉を開き、開いた扉を人にぶつけた。 女はすぐさま警官に取り囲まれ、連行されていった。 女は女を見ている視界の外へと連れられていった。 女を見ている視界は固定されたように動かず、女を追いかけなかった。 女の顔は視界に映ったはずだったが、そこには何の思い出も残らなかった。 だから女を見た視線は、女が泣いていたことにした。服は喪服の黒だったことにした。 視線はただ女を損ねたものだけを記憶した。桜並木、朝靄、曇り空、電線、命綱。 小さな傷が存在の輪郭を形作るように、女はいつもそこにはいない女だった。