「クラリタスは去る」
クラリタスは立ち上がり、去っていった。
およそこれまで座したことのない男であった。
およそこれまで横臥したことのない男であった。
いつから居たのかも、いつやって来たのかも誰も知らない。
なぜ去らねばならぬのかも、どこへ行くのかも、誰にも告げることはなく、
ただ去らねばならぬから、そして立ち上がらねば去ることはできぬから、
クラリタスは立ち上がり、去っていった。
はじめから見送るものの居ない男であった。
はじめから待つものの居ない男であった。
明日去るのでも良かった。
だが昨日去らなかったのだから、
今日この日に去ることが、男に残されたただ一つの解であった。
クラリタスは荒野に去る。
太陽が昇るよりはやく、月が沈むよりも遅く去らねばならなかった。
海峡を渡り、峡谷を越え、深山に入り、雲海を跨ぎ、
クラリタスは蒼穹から去らねばならない。
自らを構成する諸要素における異質なもののうち、最も異質なものに従う時が来たのだ。
クラリタスは脱落する。
自らを構成する諸要素における異質なものから切り離され、
クラリタスは自らにとって自らを異質なものとした。
それはクラリタスの言伝である。
男の足が踏み出されるとき、クラリタスは大地を踏みしめてはならない。
男の腕が振り出されるとき、クラリタスは大気を掻いてはならない。
クラリタスの去り際に、彼の残した幾つかの水滴が世を浄めた。
そして同じ程度に世を穢した。
それはクラリタスの詐称である。
水滴の一つはクラリタスの涙であった。これはクラリタスの汗と呼ばれる。
水滴の一つはクラリタスの汗であった。これはクラリタスの涎と呼ばれる。
水滴の一つはクラリタスの涎であった。これはクラリタスの尿と呼ばれる。
水滴の一つはクラリタスの尿であった。これはクラリタスの精液と呼ばれる。
水滴の一つはクラリタスの精液であった。これはクラリタスの涙と呼ばれる。
世の人の言うクラリタスの血は、クラリタスの残した水滴ではない。
クラリタスは血だけは流さず、ゆえに血だけは残さなかった。
クラリタスの血と呼ばれるものは、世を穢しも浄めもしない。
クラリタスの水滴は、クラリタスの存在の証ではない。
クラリタスの水滴は、クラリタスの去った証である。
クラリタスは立ち上がり、去っていった…。
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