内藤丈草の句 “水風呂の下や案山子の身の終” についての解釈

今日は内藤丈草の句についての解釈を書こうと思う。

内藤丈草は江戸時代の俳人で、松尾芭蕉の弟子。
(芭蕉の弟子の中でも特に優れた十人のうちのひとり「蕉門十哲」に数えられるとか)

筆者が内藤丈草について知るきっかけになったのは、
梶井基次郎の「冬の日」という短編小説である。

肺病を患う主人公が、友人に心情を吐露する場面で丈草の句を引き合いに出すシーンがある。

“「自分の生活が壊れてしまえばほんとうの冷静は来ると思う。水底の岩に落ちつく木の葉かな。……」
丈草だね。……そうか、しばらく来なかったな」”

木から離れた葉の一片が、河に流れて沈み、やがて水底の岩に落ち着く。
病に引き摺られながらもなんとか保とうとしている生活。
それがいっそ壊れてしまったほうが、落ち着くところ――ほんとうの冷静――に落ち着けるのではないか。
自らの行く末に対する切実な感覚を照らし合わせている印象的な場面だ。

今回取り上げるのは、これとはまた別の俳句である。

 水風呂の下や案山子の身の終 (『炭俵』)

※季語は「案山子」で秋。

おそらくかまどの上に風呂桶がある様式の風呂。
案山子は役目を終えて藁や竹に解体され、燃料としてかまどに焚べられたのだろう。
(基次郎が引いた、木の葉が水底に落ち着く句と、情景の流れは通ずるものがある。

案山子といえば田畑で鳥獣よけに立てられている・立っているのが通常のイメージだ。
だがこの句ではそのような案山子の「身の終わり」が描写されている。
いわば多くの人が「案山子」に対して抱くイメージの外に焦点が当てられているわけだ。

案山子という対象についてのイメージを広げているだけではない。
あえて田畑に立つ案山子を直接的に描写せず、その最後を描いている。
それによって「かつては田畑で立っていた(であろう)案山子」の姿が、
時間と空間を超えてありありと想起される仕掛けである。

 独りでも田畑に立つや案山子の身 (筆者の作)

なんて詠んでみたところで、そりゃ案山子なんだから当たり前だろう、と読者に思われて句の終である。
田畑に立つのをやめて、火に焚べられる。
二度とは田畑に立てないからこそ、案山子の案山子らしさは鮮烈に燃え、輝くのである。
何かの終わりのその瞬間にこそ、対象のすべてが凝縮されているように感じる。
あるいは無常観、もののあはれの発露と言えるかも知れない。

加えて、案山子の「身」と表現しているところが面白い。
(仕事を終えて)風呂の水・湯にこれから浸かろうとする人間の身体と、最後の役目として日に焼かれる案山子の身体との対比が、生々しく感じられるようになっている。

案山子を通して、人あるいは自身の終わりに想いを馳せることのできる歌でもあるのだ。
案山子の終わりが、ある種の熱を生むのだから、必ずしも悪いものでもない。捉え方次第。

いずれにせよ、優れた俳句というものは、「たかが十七文字」と侮れないほどに汲み尽くせないものをわれわれ読者に与えてくれる。
たまには案山子の隣に立ち止まって、読み解いてみるのもよいだろう。

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