友達が亡くなった

友達が亡くなった。

正確には、友達が亡くなっていたという報せを受けた。

何ヶ月前かに、急に倒れて、だったそうだ。

今のご時勢を考慮して、通夜も葬儀も近親者で済ませたらしい。

上の話は、別の友人づてで聞いた話だ。

LINEで連絡をとっても既読がつかず、応答がなく、

不審に思って御実家に連絡をとったら、上記の経緯だったらしい。


そういう報せを自分は受けたのだ。

だから、まったく実感がない。

信じられないし、あまり信じたくない。

どのように処理してよいのか、すべきなのかもわからない。

有り体に言って、混乱している。

墓参りをして、墓石に刻まれているだろう名前を読めば、実感が湧くのだろうか。

実感というより、現実として、向き合うことができるのだろうか。

確かめなくてはならないという気持ちと、確かめてしまうのが恐ろしいという気持ちが混在している。


自分でもLINEを送った。DMを送った。電話をかけた。

既読はつかず、応答はなかった。

やはり本当のことなのか。わからない。実感もわかない。

わからないということが、おそろしい。さみしい。かなしい。

人の死、友人の死というものは、こんなにも現実感がないものだったのか。

それを世の中の人々は知らないのか。

知っていて、敢えて口にもしないのか。

いや、誰かが口にしていたとしても、自分にはわからなかっただろう。

自分が失わなくてはわからないのだ。

頭で理解することと、実感としてわかることとは違う。

自分を支えている「当たり前」の脆さを、痛いほど感じる。


仮に、今の自分が死んだとして、友人知人にも気づかれず、そのまま消えていくのだろうか。

亡くなったというあいつは、友人も多く、あまり人付き合いに熱心ではない自分にとってもありがたい存在だった。

そんなやつでも、通夜や葬式では友人たちには見送られないままなんて。

それが人の生と死の現実なのか。

いずれ自分もそういった途を辿るのか。

何を言葉にすればいい。

こんな日にもソシャゲの日課をこなそうとする自分がなんだか滑稽だ。


ちゃんとした形で、あいつを悼む機会はなかった。

でも、だからこそ、自分なりに悼まなくてはいけない。

他でもない自分のために。

なぜなら、亡くなったあいつのためにしてやれることはもうないから。

その現実と向き合って、生きなくてはならないから。



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