軽さ、あるいは重さについて
自分の存在の軽薄さについてしみじみと感じることがある。
それは身軽さではない。
自分の望むままに身を処することのできるというような身軽さは、残念ながら、持ち合わせていない。
自分のことを、自分の知らないところで、自分の知らない人が、自分を知らないままに、自分の行く末を決めてしまうような、自分の軽さである。
決めるといったが、そこに「決定」などという重みすらない。誰の意識を引き止めることもない。
意識をとめられたら、とめられたで、いささかの迷いもなく、邪魔であると断じられる軽さ。
何か他のものを動かすときに、ついでに動かされたような軽さ。動かしがたいときには、嫌悪を催す軽さ。
だが、そういうことはある。
この世の中で、そのような軽さに身を置かない人が果たしているのだろうか。
ただ自分だけが、自分の存在の重みを、重く受け止めているからこそ、軽さに敏感でいられるだけのことかもしれない。
他人がそうであるように、自分もまた他人である。
他人にとっても他人であるし、自分にとっても一個の他人である。
ただ自分にとっての自分という他人は、ひとつ、もとい、ひとりしかいない。
それが我々一人ひとりが抱えている孤独の基本形態である。
だから、たとえ他人にとっての他人である自分が軽くても、自分にとっての自分の重みは、他でもない自分が認め、支えなければならない重みであろう。
その扱いの丁重さにかけては、他の人の及ぶところではない。
だが、その飛躍として、受胎した母親というものもまた在る。
いわば身重の存在である。
自分の重みに、他の生命の重みを内包した身体。
その重みは、その身だけの重みではない重み。
自分のことを、自分の知らないところで、自分の知らない人が、自分を知らないままに、自分の行く末を決めてしまうような、重みである。
誰もがかつてはその身の重さを、誰かの身の重さのうちに包まれていた。
きっとその時が、自分が最も重かったときだろうと思う。
この先、自分はただ緩やかに、そして急速に軽くなっていくことだろう。
その重みが回復することは決してないのだ。
せめて私の軽さを忘れて。
せめて私の重さを忘れて。
©依田稽一
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