問いについて、或いは如何に問いを立てるべきか?
どんな答えを出すかよりも、どんな問いを立てるかのほうが大事だ。
つまらない問いからは、つまらない解しか期待できない。
ここでいう「つまらない」には、いくつかの意味がある。
ひとつには、応用が利かないということ。
たとえば、個別具体的すぎる問い。
すぐに個別具体的な解が用意できて、賞味期限の早いもの。
「依田の今日の朝飯は何?」
覚えていれば、すぐに解が出るだろう。
あるいは何かしら記録していて、それを見返せばわかるだろう。
だが、それがわかったとして、何だというのか?
依田個人にとっては、なにか期待する意味があるかもしれない。
その一日にとるべき栄養素の配分を把握したいのかもしれない。
依田個人の記憶力の保持を再確認したいのかもしれない。
だがそれら、背景となる問いの一部として組織されていなければ、「依田の今日の朝飯は何?」という個別の問いに意味はない。
せいぜい日々の繰り返しの話題として上り、そのまま忘れられて消えていくだけ。
他人にとっても、自分にとっても、その日その場を凌ぐために使い捨てられるもの、そのために生み出されるものだ。
いわば、問題ではなく、話題として消費されるたぐいのものだ。
または、問いを立てたものが、自ら解を生み出すことを主題としない問い。
甚だしく「甘い問い」といえる。
いわば、暗黙の前提として、問いを立てた自分だけは楽をして、なんのリスクも引き受けず、支払わず、与えられる代償や成果の上澄みだけをすくい取りたい、というような願望が透けて見えるような問い。
いかなる材料を並び立てても、意味内容のせいぜいが「自分の思い通りにならないのはなぜか」しか含まれていないようなものだ。
それは他人に問うものではなくて、自分に問うてみるしかない(そしてその無意味さを痛感してみるしかない)のだが、往々にして感情任せに他人にそれを問うものがいて、そういう人物をクレーマーと呼ぶ。
社会の中で当たり前に享受してきた福利が、見知らぬ他人の問いと解の生みの苦しみによって供されていることを、ついぞ解す機会がないまま歳を重ねてきたのかもしれないが、もしも本当に何とかしなければいけないと考えているのならば、自分で何とかしなければならないのではないか?
その人が口にするところの「常識を疑う」、「信じられない」人間に、何を期待しているのだろうか。
右から左へ、上から下へ、狭い輪の中で、解を出すことをやめた問いには、誰も取り合う価値がないのだ。
さらには、解の出しようがない問い。
前提条件と内容の矛盾により、そもそも解の出しようがない問いもありうる。
たとえば、「花をいつまでも美しく咲いたままで、永遠に固定することはできないか」という問いを立てたとする。
だが、それは不可能な問いだ。
なぜなら植生物としての花は、枯れてこそ花であるからだ。
いつまでも美しく咲く花は、もはや花ではない。
よって、いつまでも美しく咲く花はありえない。
解を出すためのすべての試みが、徒労に終わりうるのだ。
問いさえ適切に立てていれば、たとえすぐに最適な解が出せずとも、導き出された一つ一つの解が、より適切な解を生むための一助になりうる。
ではいかに問いを立てるべきなのか?
これはまた重要な問いであると言えるだろう。
安易に結論は出せないし、自分で問うてみなければ意味は取り出せない。
これまで見てきたように、「つまらない」問いを避けても良い。
それよりも「面白い」問いを立てられるように試すのも良い。
人がどのような問いを立てているのかを注意深く見てみるのもよいだろう。
読んで字のごとく、学問とは学びと問いの取り組みなのだから、その集積を紐解く価値は大いにある。
いずれにせよ重要なのは、自分の問いに取り組めるのは、どうあがいても自分でしかないということだ。
自分の人生の重要問題になんの準備もせず直面するのは避けたくはないか。
まずは自ら問いを立て、解を出そうとしてみること。
解を出すのが難しいのなら、そもそもの問いの立て方に不備があるのではないか検証してみること。
それが大事なのではないだろうか。
©依田稽一
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